第6回 モダン・ジャズ・カルテット―白人社会を飲み込むクールネス

音楽家は服を着る by 青野賢一 2013年7月4日

ビ・バップ以降のいわゆるモダン・ジャズを象徴する存在「モダン・ジャズ・カルテット」。ジャズの歴史の中を通じて、彼らの音楽、ファッション、アイデンティティを探ってみよう。

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ジャズ、と一口に言っても、時代によってニュアンスは随分と異なる。今回取り上げるモダン・ジャズ・カルテット(以下、MJQ)の結成は1952年(前身であるミルト・ジャクソン・カルテットは1951年に結成)。「ジャズ・エイジ」と称される1920年代から、スイング黄金期つまり1930年代の終わりまでとはガラリと変わった1940年代以降のジャズである。何がどう変わったか? それを知るには、ジャズという音楽の成立から見ていかねばなるまい。

ジャズの発祥は19世紀の終わり頃のアメリカ・ルイジアナ州はニューオリンズまでさかのぼる。フランスの植民地だったルイジアナ(現在のルイジアナ州よりも広範な地域)は、1763年、ルイ15世が従弟のスペイン王に譲渡しスペイン領となる。1800年には再びフランス領となるも、1803年にナポレオンがアメリカ合衆国に安価で売り渡し、その後、港町として栄えていくことになる。こうした背景から、ニューオリンズには、ヨーロッパからの移民、クレオール(ヨーロッパからの移民の子孫のうち、植民地=アメリカで生まれた人々で、混血も多数含まれている)、そして労働力として連れて来られたアフリカ系黒人が混在していた。西欧音楽と黒人、クレオールとが出会い(そこには、奴隷解放とキリスト教化が大きく関わっている)、ブラスバンドからいわゆるニューオリンズ・ジャズへと発展していくこととなったのである。

ニューオリンズの歓楽街ストーリーヴィルの興隆により、屋外のセレモニーなどで演奏するブラスバンドから、次第に室内での演奏へと形式を変えたジャズは、1917年のストーリーヴィル閉鎖の影響を受け、1920年代にはシカゴへとその中心地を移していき、またニューヨークでは、ハーレムにおいてビッグバンドスタイルが登場し、来るべきスイング時代を準備した。1929年の世界大恐慌と復興を経て、ジャズの中心はニューヨーク全体に。ベニー・グッドマン楽団、グレン・ミラー楽団、カウント・ベイシー・オーケストラといったビッグバンドが人気を誇り、メディアにも取り上げられるようになってジャズは大衆化していくが、第二次世界大戦がこの時代に終止符を打つことになる。

スイング時代の終焉の次に登場するのがビ・バップであり、これ以降を「モダン・ジャズ」と称することが多い。娯楽的なスイングは、同時に優秀なソロイストも輩出したが、こうしたソロイストたちのジャムセッションから生まれた、研ぎすまされた創造意欲のかたまりがビ・バップである。テーマの後にアドリブでソロを廻すという、現代において「ジャズ」といって多くのひとがイメージする形態のこの音楽の立役者が、サックス奏者チャーリー・パーカーとトランペット奏者ディジー・ガレスピーであった。ディジー・ガレスピーは、モダン・ビッグ・バンドを率いていたのだが、MJQは、そこで演奏していたミルト・ジャクソン(ヴィブラフォン)、ジョン・ルイス(ピアノ)、ケニー・クラーク(ドラム)にパーシー・ヒース(ベース)が加わって結成されたものだ。

MJQの音楽的な特徴は、そのままジョン・ルイスの音楽的下地と重なる。MJQの音楽監督を務めていたジョン・ルイス(結成当初はミルト・ジャクソンも担当していたが後にひとりに)は、西欧のクラシック音楽に通じていた。J.S.バッハを彷彿とさせるフレーズが時おり顔をのぞかせたり、あるいは1969年ビートルズのアップル・レコードからリリースした『Space』に「アランフェス協奏曲」が収録されていたりするのもそのせいだろう。スイングの頃の享楽的で大衆化したジャズではなく、知的でクールなMJQのアプローチは非常に斬新なものであったし、管楽器を入れずミルト・ジャクソンのヴィブラフォンをフィーチャーした編成もまた抑制の効いたムードを醸し出すのに一役買っていたのは言うまでもない。

1981年発行の『音楽の手帖 ジャズ』(青土社刊)に所収の、海野弘による論考の中で、ジャーナリストであり音楽家でもあったジェームス・リンカーン・コリアの著書『ジャズの形成』から引用したテキストに興味深いものがあった。孫引きとなるが以下の通りである。「バップ・プレイヤーはイギリスの株式仲買人のようなかっこうをした。(中略)彼にはアームストロングのにやにや笑いや、大きく手をひろげたポーズはなかった」。

MJQのファッションを見ても、ライトグレーやチャコールグレーのスーツにタイ、というものがほとんどである(後期はタキシードが定番のようだ)。そうしたファッションやたたずまいは「白人が期待しているところの、陽気な黒人の芸人の役を演じることを、慎重に避けようとする試みであった。また他方では、これこそ四角ばって、限定された白人社会の表現だと黒人が見なして、提供しているものでもあった」(出典:前引用と同様)。1950年代に入ると公民権運動が高まり、黒人の意識も変った。最早、主人を必要としない黒人の代表選手であるこの時代のジャズミュージシャンのクールな態度が、白人社会を内包=飲み込んでいるというのは何とも興味深い話である。

ジャズの歴史から考えると、ブラスバンドには制服があったと思しきこと、フランス文化をはじめヨーロッパの影響があったこと、箱付きのバンドが多かったこと、エンタテインメント性の高いスイングジャズの興隆などが、ジャズミュージシャンにスーツやタキシードをまとわせる理由の一端になっているのではないだろうか。バップ~クールジャズ~ハードバップの頃は前述の通りであり、1960年代後半のヒッピームーブメントと、技術の進歩によるカジュアルウエアの発達が、フリージャズの勃興、フュージョンの台頭と重なるのもおもしろい。

青野賢一

青野賢一

BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。



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