第1回:多胡邦夫インタビュー(前編)〜僕は人のカバーって全然やったことが無いんです

WEB版 職業作曲家への道 by 聞き手:山口哲一 2013/07/18

第一線で活躍するクリエイターに、その創作方法やビジョンなどを伺っていく連載の第1回。AKB48、ELTから浜崎あゆみ、hitomi、木山裕策まで、幅広いアーティストに楽曲を提供している多胡邦夫さんの登場です。

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現在活躍中の作曲家やプロデューサーは、アーティストでのメジャーデビュー経験がある人が多いのですが、多胡さんはいきなり作曲家としてデビューして、その後は15年に渡ってヒット作を連発。しかも自分ではDAWを操作することは無く、ギター1本での作曲を武器としています。今どきの作曲家としては、特殊な例ではありますが、アレンジ偏重、トラック偏重のいまこそ、多胡さんの作る“ぶっとい”メロディが異彩を放っているのかもしれません。前編後編に分けて、作曲家デビューまでの話や、創作の秘密、そしていま力を入れているプロジェクトのことなどを伺っていきましょう。まずは前編から!

20歳までは群馬県で活動

山口 まずは、多胡さんが音楽の道を志すようになったきっかけを教えてください。

多胡 エレキギターとの出会いが、小学校の6年生のときにあったんですね。家庭科の調理実習があって、そこで料理を作ったあとに余興をしましょうということになって……。そのときに、学校一番の不良が兄貴のエレキギターを借りてきて、スターリンの「天ぷら」という曲をいきなり目の前で演り始めた(笑)。エレキギターの迫力にも圧倒されましたけど、「天ぷら! 天ぷら!」って叫んでいる姿がもう、すごいなって。

山口 小学校のときに、そんなことがあった。マセていたんですね。

多胡 その友だちには、3つ上の兄貴がいたんですよ。それでフェンダーストラトのサンバーストを持って来てて、「何だ、これは!」「エレキギターだよ!」なんていう話をしていました(笑)。そこから、そいつらと一緒に音楽室に忍び込んで、クラシックギターで44マグナムとかアースシェイカーなんかをコピーしていた。当時の僕らからしたら、ちょっとお兄ちゃん世代の曲なんですけどね。で、僕なんかはアースシェイカーの元曲も知らずに弾いていたんですから、面白いです。

山口 では、音楽活動はギターから始まったわけですね。

多胡 当然エレキが欲しかったんですけど、お金が無かったので買えず……。お年玉を貯めてやっと買えたのが中学2年のとき。当時はバンドブームの真っ最中で、群馬県高崎市ですから、BOOWYの影響がハンパじゃなかったです。そういう感じで僕もバンドを始めていって、20歳まで群馬県でバンド活動をしていました。群馬の中では一番うまいと言われている連中とバンドを組んでいたので、これ以上ステップアップするには東京に出るしかない、そういう思いになって20歳で東京に出たんですね。

山口 そのバンドではギタリストだったんですか?

多胡 曲を作って歌っていました。で、他の人にオススメはできないんですけど、僕は人のカバーって全然やったことが無いんですよ。ギターを買って2週間後には友だちとバンドを組んでいたんですけど、当時はたくさんあったコンテストに出るには、オリジナル曲を作らないといけなかった。コピー曲では、コンテストには出られなかったんです。それで、ギターを買って最初にやり始めたのがオリジナルソングの制作だった。分からないなりに最初から曲を作っていて、それでエントリーして、出るということをやっていたわけです。それでいろいろな大会で優勝するようになったので、これ以上は上が無いな、東京に出ようという感じだったんですね。

エイベックスとの数奇な出会い

山口 東京での活動は、どんな感じで進められたのですか?

多胡 高校の同級生でずっと鍵盤をやっていた米田(浩徳)っていう相方がいて、いまだにそいつと一緒に仕事をしているんですけど(笑)、僕が曲を作って、彼が打ち込み的な部分を担当して……というのを、バイトをしながらずっと続けていました。「ドラムはこういう風にして」って言って打ち込んでもらっていたので、2人でバンドをやっているような感じでした。あとは、何回かバンドも組んだりもしましたが、なかなかうまくいかずに……。そういうことを繰り返しながら、20歳〜25歳までの間にアルバム的なデモテープを2回だけ作ったんですね。

山口 アルバム的なデモテープというのは?

多胡 単純に曲ができたからデモを作ったというのではなく、作品としてまとまった形のデモテープなんです。1回目の時はバンドメンバーもいたんですけど、とにかくそのデモテープを日本中のレコード会社に送りまくろう、ということで。でも僕は「エイベックスには送らなくて良いから」ってみんなに言っていたんです(笑)。なぜかと言うと、すごいロックなバンドで作ったデモだったので、ダンスミュージック一色だった当時のエイベックスとは全然接点が無かったから。ダンス=エイベックスという感じでしたから、万が一お呼びがかかっても、僕らはダンスのレコード会社には行かないでしょうっていうのがあって……。

山口 硬派なバンドマンだったんですね(笑)。そのバンドはどうなったんですか?

多胡 結局そのデモは特にどこにも引っかからずに、24歳のときに次のデモテープを作ることにしました。それでプロになれなかったら、もう音楽を止めて群馬に帰ろう、というくらいの気持ちで。この2本目のデモテープも、やっぱりエイベックス以外のレコード会社に送りまくるんですけど、反応は全然無し。でも2ヶ月くらいしたら家の電話が鳴って、「エイベックスの竹林(一敏)と申しますが、ウチのhitomiに曲を作ってもらえませんか?」っていきなり言われた。でも僕は寝起きだったし、事態が全く飲み込めていなかったので「“ウチのhitomi”ってどのヒトミさんですか?」みたいな感じで返してて(笑)。そうしたら「小室ファミリーのhitomiです」「えー!?」って。そもそも、なぜエイベックスの人が僕の電話番号を知っているのかも分からないわけで……。

山口 デモテープがエイベックスの方に渡っていたんですか?

多胡 ええ。エイベックスには送っていないはずのデモテープを、なぜか聴いてくれていたんですね。しかも、そのデモテープは僕が自信満々で作った2作目ではなく、どうやら2年前に作った1作目だった。何が起きたのかが全然分からなくて、当時のメンバー全員に電話して聞いてみたら、ドラムの櫻井(雄一/現LUNKHEAD)が「送るなって言われたけど、いちおうエイベックスにも送っちゃったんだよね、実は」って(笑)。そのデモを聴いたディレクターさんが、「いつかhitomiがロックをやるようになったら、この人に曲を頼みたいな」っていう思いで、その汚いカセットテープを、2年間、自分のデスクの中にずっと入れていたそうなんです。後にも先にも、そういうことは無いっておっしゃってましたけど。それでhitomiさんの直近のアルバムを聴かせてもらったら、すごくかっこ良いアルバムで、めちゃめちゃロックしてたんですね。「うわ、これなら俺がやりたいことを書いても、そのまま使ってもらえるな」って。で、会社に行ったら「ほかに曲はないんですか?」って言われたので、自信満々のデモを「僕がいま本気なのは実はこっちなんです」って渡したら、1週間後には電話がかかってきて、「契約してください」という話になった。それで、エイベックスってやっぱりすごい会社なんだなって思いました。それまでいろいろな新人開発なんかに引っかかったりはしていましたけど、即契約なんてあり得なくて、時間がかかるものだと思っていましたから。

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逃亡して訪れた山口県下関市

山口 しかし不思議な縁というか、奇跡のような話ですね。

多胡 あのときに櫻井がデモを送らなかったら、間違いなく僕はいま作曲家をやっていませんから。しかも僕は、作曲家になるために音楽をやってきたわけではなかった。ただ自分でも驚いたのは、「こういう曲を作って」って言われて、女性ボーカリストをイメージして作ってみたら、メロディがすごい出てくるんですよ。自分でも笑ってしまうくらい、バンバン作れてしまう。

山口 職業作曲家に向いていた?

多胡 それを認めざるを得ないくらい、メロディが出てきた(笑)。「人の曲を作るために生きてきたわけじゃないぜ」みたいに考えている自分もいたりして、葛藤があることはあったんです。でも、あまりにもメロディが作れてしまうし、それがだんだん楽しくなってきた。当然それが世に出れば、ファンの方からメッセージが届いたりもするじゃないですか? それで、「これはこれで認めないといけないな。俺には1つこの才能があって、もしかしたら自分で歌ったりするよりも、こっちの方がよっぽど人を幸せにできるのかもしれない」。そういうことを、そこから数年かけて自分の中で会話していくんですけどね。でもそれくらい、メロディでは悩んだことが無かった。最初の5〜6年は全く悩まず、「こういう曲調で、こういうテンポで」って言われたら、1時間以内に1曲できるとか。そういうペースでしたね。

山口 アーティストから職業作曲家への移行期には、やはりそういう葛藤がつきものなんですね。

多胡 メロディが出てこなくて悩んだことは無いんですけど、ある日、自分の曲を作ってみようかなって思っていたら、「あれ、自分の曲ってどう作ってたっけ?」ってなったことがあるんです。自分の曲を作る場合と、頼まれて作る場合では、同じメロディでもやっぱり出てくる回路が違うんですよね。それでちょっと怖くなってしまって、1週間ほど逃亡したことがあります。で、逃亡してどこに行ったかというと、山口県の下関。KATZEの中村敦が僕の中では神で、「敦が生まれ育った町並みを見て、自分と向き合わないと壊れちゃうぞ」と思って新幹線で一気に向かっていました(笑)。綾羅木という町に1週間くらいいたんですけど、たどり着いた答えは“自分の好きな曲を、好きに作れば良い”っていうとてもシンプルなものでした。でも、僕はそれを見失っていた。人に頼まれて作るから、人は喜んでくれるけど、自分をどう喜ばせるかを一瞬見失っていたんですね。それからは、一段落したら心を解放してあげて、いろいろなものを楽しんだりするようにしているので、精神的なバランスの崩壊は一度も起きていないですけど。そこが一番、大人になったのかもしれないですね。

山口 心の解放では、どういったことをされています?

多胡 作曲家って、ネオン街に行く人と、自然に行く人の2つに分かれると思うんです。僕はどっちかと言えば自然派で、山とか海に仲間と行ってバーベキューしたり、自然の中に入っていく方が救われるんですね。でも時間が無いときによくやるのは、映画を見ることだったり、美味しいものを食べるでも全然良いんですけど。ただこの会社がすごいのは、曲を書くのが嫌になって書けなかったあの時期でも、怒られないというか、見守ってくれていたんですね。「またちゃんと書けるようになるまで、少しリラックスしていれば良いよ」って。

山口 しかも、キャリアのスタート時からチームが変わっていないわけじゃないですか。これも珍しいですよね。

多胡 初めて伊東(宏晃)さんという方にお会いした日からずっと、今でも伊東さんの部署にいますからね(笑)。会社の名前とか部署はいろいろ変わっていますけど、基本のチームは一緒です。最初はアクシブが30人くらいしかいないころで、みんな仲良しで、みんな顔を知っている。だから、会社に行くのがすごく楽しかったですよ。今が楽しくないってわけではないですけどね(笑)。

山口 いきなり作曲家になって、メジャーなアーティストに楽曲を提供して、そのまままっすぐ成功する例ってなかなか無いですよね。エイベックスという会社の成長と、制作部門を充実させようという戦略があって、ちょうどタイミングが良かったということもあるとは思いますが。

多胡 プロデューサーズルームっていう部署が立ち上がって、僕はその1期生ですから。そういう意味では、すごく良いタイミングだったんでしょうね。

(後編に続く)

POSTSCRIPT by 山口哲一

近年活躍する作曲家でパソコン(DAW/DTM)を使わないというのは、珍しいことです。けれども、ともかくメロディを大切にする産み出し方は、“歌もの”とも言われるポップスの基本に忠実であるとも言えますね。
もちろん、多胡さんは、デジタルの変化に疎いのではなく、海外のデジタル系の音楽サービスをきちんとウォッチングしているし、SNSも使いこなしています。
礼節や人の人とのつながりをとても大切にしていて、テレビ番組にも出演する売れっ子作家というイメージにありがちな高慢な感じはひとかけらも無い人です。
僕の印象は、大切なものが分かっている人なんだなぁということ。メロディ重視の作曲法にしても、人間関係の築き方にしても、軸が太い人は強い。インタビュー中も自分に“場”を与えて、育ててくれたスタッフに対する感謝を何度も口にされていました。こういう人には幸運の女神も優しいのでしょうね。エイベックスが作曲家を育てようとしたプロジェクトの“1期生”のような立場で、組織の発展と共に活動領域を広げているように見えます。本人が「ラッキー」と言っているのは謙遜でしょうが、スタッフと良好な関係を築いていくのは、職業作曲家にとってはとても重要なことです。
後編では、多胡流創作の秘密や、新たなプロジェクトについて語ってもらえるので、楽しみにしてください。

多胡邦夫(たご・くにお)

「バンドやってる奴なら知らない奴はいない」と言われる程、地元群馬での実力と人気を誇った伝説的なバンドがあった。
その年、彼は天才的なボーカルと作曲能力を発揮し、全国区のバンドコンテストを文字通り総舐めにしていた。
10代でスタジアムライブを経験、FM局では彼らの声や曲が流れ、あるコンテストで多胡邦夫はベストボーカリストにも選ばれている。
その後、彼らのデモテープは数社のメジャーレコードメーカーの耳に止まり、20代前半で多胡邦夫はプロとしての道を歩み始めた。
繊細さと大胆さを併せ持ち、素直に、正直に、真直ぐに、、、響く彼の楽曲の圧倒的なクオリティが、まだその音を知らない音楽業界に話題を呼び多くのアーティストから楽曲提供の依頼が殺到した。
浜崎あゆみ、hitomi、EveryLittleThing、柴咲コウ、、、僅か3年程の間にその数なんと約60曲!!
彼の魂を分けたメロディー達が時代を揺る数多くのメジャーヒットを産み、その後2004年6月2日に多胡邦夫自身によるソロデビューシングル「赤い雨」をリリース!!
「plane」「TRIPLANE」など若手実力派アーティストのサウンドプロデュースを手がける他、映画「SUPPINぶるぅすザ・ムービー」のサウンドトラックプロデュースをはじめ、日本テレビ「歌スタ」でのうたい人ハンター、FM横浜「tre-sen」内での番組「シャンクシャンクシャンク」など多方面にて活動。

山口哲一(やまぐち・のりかず)

1964 年東京生まれ。(株)バグ・コーポレーション代表取締役。『デジタルコンテンツ白書』(経産省監修)編集委員。j-Pad Girlsプロデューサー。SION、村上“ポンタ”秀一など の実力派アーティストをマネージメント。東京エスムジカ、ピストルバルブ、Sweet Vacationなどの個性的なアーティストをプロデューサーとして企画し、デビューさせる。プロデュースのテーマに、ソーシャルメディア活用、グローバ ルな視点、異業種コラボレーションの3つを掲げている。2011年頃から著作活動も始める。2011年4月に『ソーシャルネットワーク革命がみるみるわか る本』(ふくりゅうと共著/ダイヤモンド社)刊行。2012年9月に『ソーシャル時代に音楽を“売る”7つの戦略』(共著/小社)刊行。

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