第26回 B.B.キング ―アメリカはブルースを忘れない

音楽家は服を着る by 青野賢一 2015年6月11日

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先日、惜しくも他界したB.B.キングは、多くのリスナー、そしてミュージシャンからも“キング・オブ・ブルース”としてリスペクトされ続けた。キングの軌跡はそのままアメリカにおけるブルースの歴史に重なるところも大きい。改めて彼の功績を振り返ってみたい。

アメリカ・ミシシッピー州は、古くからプランテーション経営が行われ、何度かの例外はあったものの、ほかのアメリカ南部と同様に白人至上主義が貫かれていた。すなわち黒人にとっては辛く厳しい時代が長く続いていたのである。そうした中で、宗教が重要な存在になっていったことは想像に難くないだろう。アメリカ南部ではプロテスタント、とりわけバプテスト系教会が強く、やがてアフリカ系アメリカ人は独自のバプテスト教会を組織するようになる。こうした信仰心の強さは、後の公民権運動の精神的な支えにもなった。

奴隷制度が存在した時代には黒人霊歌(スピリチュアルとも)と呼ばれる宗教歌があった。主に旧約聖書から題材を取り、辛い現世も信仰によって来世では解放されるという希望を込めたそれらの歌は、集団で歌われることがほとんどで、やがてゴスペルへと発展していくこととなる(ゴスペルの語源は”Godspell”=神のことばである)。

もうひとつ、黒人奴隷のあいだで歌われていたのが“フィールド・ハラー”と呼ばれる労働歌だ。黒人霊歌が集団で歌われる合唱形態だったのに対し、このフィールド・ハラーは労働の最中、個人で歌われていた。黒人霊歌とフィールド・ハラーはどちらもアメリカのフォークミュージック(民謡)である。

去る5月、B.B.キングが亡くなった。89歳だった。“キング・オブ・ブルース”と称されるキングは1925年、ミシシッピーに生まれた。子供の頃は小作人として働いていたというから、裕福な環境ではなかったのだろう。キングが生まれた頃には、南部のアフリカ系アメリカ人が人種差別から逃れ、少しでも良い環境を求めて北部に移動する“グレート・マイグレーション”という動きがあったが、キングは1943年までミシシッピーに留まり、その後テネシー州メンフィスに移り住む。幼いときからギターに触れ、才能の片鱗を覗かせていたキングは、メンフィスで16歳ほど年上のいとこであるブッカ・ホワイトにギターを学ぶ。ブッカは1930年にはレコードを吹き込んでいるから、キングにとってはいとこであるし大先輩ということになる。しばらくの後、メンフィスのラジオ局のDJとなったキングは、1949年に晴れてレコードデビューを果たし、1952年には「3 O’clock Blues」が大ヒット。この12小節形式の典型的なブルースのヒットにより、B.B.キングの名前は多くの知るところとなった。

戦前、アメリカのポピュラーミュージックは、ティン・パン・アレーのシステムが産み出した楽曲とそれを流通させるメジャーレコード会社によってほぼ仕切られており、「民族音楽であるブルースを育ててきた黒人底辺大衆と、大衆音楽を握る音楽業界との間は、不自然な垣根で隔てられていた」(中村とうよう『大衆音楽の真実』より)。第二次世界大戦は、軍需関連の労働力需要を創出し、これにより北部の都市圏に移動する黒人労働者も多かったが、先の『大衆音楽の真実』によれば、この時期にジュークボックスが急増したという。戦時中の人手不足の折、人力でレコードをかける手間が省けるということで「国内の軍隊基地のPX(引用者註:売店、購買部)には必ずジュークボックスが置かれた。特に黒人街の飲食店や黒人兵の多い部隊のPXではジュークボックスが好まれ、これも黒人音楽のレコードへの需要を生んだ」。大手ではないインディーレーベルは黒人音楽、つまりブルースやその発展系であるリズム&ブルースをリリースし、それらがジュークボックスで聴かれ、ラジオで聴かれ、一般に浸透していった。そうした中でB.B.キングの音楽も多くの人の耳に届いていくこととなったのだった。

黒人音楽の盛り上がりからロックンロールが生まれ、ユースカルチャーが発達していく。そうした時代の変化により多少の浮き沈みはあったが、B.B.キングはコンスタントにレコードをリリースし、60年代に入るとイギリスでのブルース・ブームから、ローリング・ストーンズなどに多大な影響を与え、晩年まで多くのミュージシャンからリスペクトされ続けた。グラミー賞受賞は15回。1987年にはロックの殿堂入りを果していることからも、アメリカ音楽界への貢献度は計り知れないものがあるだろう。

映像などで確認すると、80年代の中盤頃まで、キングは彼のレコードジャケットに見られるようなオーソドックスなスーツでステージに上がっていたようだが、ロックの殿堂入りしたあたりから、より煌びやかなジャケットやスーツを好んで着るようになった。グレーやベージュの3ピーススーツから、シルバー系の光りもののスーツ、ラメをあしらったタキシードジャケットへ。こうしたステージ映えを意識した衣装は、アメリカにおけるザ・ショービジネスといった印象であり、端的にいって、エンターテイメント化されていったのである。80年代以降は、アルバムリリース以上にコンサート活動が中心となり、またロックの殿堂に名を連ねたことが、こうしたエンターテイメント化に拍車をかけたのだろう。このことは、一見すると、大衆化という大波に飲まれてしまったようにも思われるが、果してそうなのだろうか? 私の答えはノーである。キングは、大衆に向けてブルースをやり続けた。衣装こそエンターティナーといった面持ちになったが、音楽に関しては一貫して伝統的なブルースに根ざしたモダン・ブルースを展開した。キングのこうした活躍のおかげで、現在までアメリカはブルースを忘れることはなかったし、おそらくこれからもそうであるに違いない。それはつまり、アメリカの歴史と、そこに確かに存在したアフリカ系アメリカ人の辛い時代を、多くの人が心に留めているということである。音楽を通じて、歴史を人々の心に刻む。これこそがブルースであり、だからこそB.B.キングは“キング・オブ・ブルース”なのである。

▲2014年にアメリカで公開された『B.B. King: The Life of Riley』は、B.B.キングの生涯を振り返る音楽ドキュメンタリー。ミシシッピの農地で小作人として働いた幼少時代や、その後の人生で体験した偏見や人種差別について本人が明らかにするほか、エリック・クラプトン、ボノ(U2)、リンゴ・スター、カルロス・サンタナらが、B.B.キングについて語っている。

 

 

青野賢一

青野賢一

BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。



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