第26回 ローンレディ ―インダストリアルな風景を濃縮還元した音楽とファッション

音楽家は服を着る by 青野賢一 2015年3月31日

P.I.L.のオリジナルメンバー、ジャー・ウォブルとキース・レヴィンが絶賛し、ワープ・レコーズ設立者スティーヴ・ベケットが惚れ込んでリリースを決めたマンチェスターの女性アーティスト、ローンレディ。彼女の2ndアルバムを通じて、1985年以前と以後を再考してみる。

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岡崎京子は『80年代でポンッ‼︎』(初出は『CUTiE』1993年1月号。「岡崎京子 戦場のガールズ・ライフ」展覧会公式図録に再録)のなかでこう述べている。「80年代には①アーリィ80’sと②85年以降とゆうのがあります」「この2つは全然ちがうもんです」。漫画の吹き出しに書かれていることばだから、引用を続けると却って煩雑になるので以下要約すると、①のアーリィ80’sは、終わってゆく、朽ちてゆくことへの被虐的で退廃的なロマンティシズム。②の85年以降は、世界は終わらずにそして新しいことも起こらずだらだらと続くだけ。ものはたくさんあるし景気もいいから享楽的なムードが充満していた、といったところだ。 新しい時代への転換は、世紀の区切りを挟んで前後15年を要するといわれているが、その観点からいえば1985年というのは、来たるべき21世紀を迎えるための端緒となる年である。では、なにが起こったか。1985年は、ゴルバチョフがソ連共産党書記長に就任し、ペレストロイカとグラスノスチを進めることとなった年であり、日本国内では電電公社、日本専売公社の民営化、首都圏でのオレンジカード(JRの磁気式プリペイドカード)導入といった出来事があった。ちなみに翌86年には、スペースシャトル墜落とチェルノブイリ原発事故が起きている(『80年代でポンッ‼︎』には、「この時、本当にいったん何かが『終った』んだろうと思います」と記されている)。

音楽においてのアーリィ80’sと85年以降はどうだったかというと、デジタルシンセサイザー、デジタルサンプラー、デジタルレコーディングの登場と普及が大きい。『キーボード・マガジン』2015年春号の「『音楽図鑑』徹底解剖」での坂本龍一へのインタビューと「坂本龍一と10の楽器」という記事は、80年代半ばのそうした新しい波がいかに取り入れられていったかを知ることが出来る大変貴重なものだ。『音楽図鑑』は1983年1月にレコーディングを開始し、マスタリング終了が翌84年8月と、1年8ヶ月という月日が費やされている。途中、83年11月から84年1月まではYMOの活動に充てられて録音は中断しているのだが、「大きいのはそこで楽器が変わったんです。具体的にはFairlight CMIを導入したんですが、それが衝撃で、この楽器からインスパイアされるところが随分あって、前半やっていたことの工事というか、作り直しにかかりましたね」(「『音楽図鑑』徹底解剖」坂本龍一インタビューより)。Fairlight CMIはデジタルサンプリングマシンであり、シーケンスの組み立ても出来るというもの。『音楽図鑑』レコーディングの後半には、これと3Mのデジタルマルチトラックレコーダーが導入されている。いうまでもなくこれは最先端の現場での話であり、とりわけFairlight CMIのようなデジタルサンプラーや、フルデジタルシンセサイザーの名機ヤマハDX7などを用いた音楽が増加してゆくのは1985年以降ではないだろうか。スクリッティ・ポリッティのアルバム『キューピッド&サイケ 85』は、そういう意味では象徴的な作品である。

『音楽図鑑』のレコーディングが開始された1983年には、その後の時代を予感させる重要な曲がリリースされた。ニュー・オーダーの「Blue Monday」である。12インチシングルのジャケットは、ピーター・サヴィルによるフロッピーディスクを模したデザイン。バンドが使っていたサンプリングキーボードEmulatorの記録メディアであるフロッピーディスクをピーターが初めて見て衝撃を受けたことから出来上がったものだが、そのせいで「Blue Monday」は売れば売るほど赤字になってしまったというのはよく知られた話だ。ほとんど打ち込みで制作された「Blue Monday」だが、そのビートは、ニューヨークのクラブでプレイされていた音楽ーー例えばドナ・サマー「Our Love」のようなーーを再現しようとして作られた。つまりジョイ・ディヴィジョン時代からのポストパンク感とダンスミュージックが結びついたのが「Blue Monday」であり、この曲のヒットは後々まで多くの人に影響を与えることとなった。

「Blue Monday」をはじめ、ニュー・オーダーの諸作(と、その前身であるジョイ・ディヴィジョンの作品)をリリースしていたのは、マンチェスターのレーベル、ファクトリー・レコーズだ。マンチェスターは今回紹介するローンレディの出身地であり、大学時代にアメリカのオルタナティヴ音楽に触発されて楽曲制作を始めた彼女は、その後ファクトリー・レコーズを筆頭にマンチェスターの豊かな音楽遺産に触れ、ポストパンク~ニューウェーヴに傾倒していったという。 ローンレディは、ジュリー・キャンベルによるソロプロジェクト。生ドラム以外のすべての楽器を自身で演奏し、MTRに録音した楽曲が「ワープ」のレーベルオーナー、スティーヴ・ベケットの目に止まり、2009年に同レーベルと契約。翌年リリースしたデビューアルバム『ナーヴ・アップ』は、アート・オブ・ノイズの一員であるポール・モーリーにも絶賛された。2011年には元P.I.L.のジャー・ウォブルと出会い、ジャー・ウォブル&ジュリー・キャンベル名義でアルバムをリリース。そうした中で時間をかけて制作したアルバムが、2015年3月にリリースされた『ヒンターランド』である。

スクエアなビートはエレクトロニクスを導入したニューウェーヴといった面持ちだが、そこに絡むヘヴィなベース、フリーキーなギターリフやシンセ、そしてボーカルは、制御されていない生々しさがある。『ヒンターランド』はそういう意味で実にロックなアルバムであると言えるだろう。本作のライナーノーツに拠れば、彼女は「インダストリアルな風景は私の風景である」という考えを持っているそうで、そのあたりの思いはアートワーク、冷んやりとした音色、そして、“荒野”“辺境の地”“汚れた窓”“鉄屑”といった言葉を多く含んだ歌詞に存分に発揮されている。インダストリアルな風景、それはまさしく世界に先駆け産業革命を成し遂げたマンチェスターの姿である。ご存知のように、マンチェスターは綿工業の中心地として、産業革命を契機に急速に発展した。しかしながら、19世紀中盤から20世紀初頭のパクス=ブリタニカ以降、つまり第一次世界大戦以降の英国の(相対的な)国力の弱まり、そして第二次世界大戦の被害、戦後の長期不況、産業構造の変化によって衰退してゆくこととなった。それに伴い、工場跡や空き倉庫、空き家などは放置されたままとなり、荒廃した風景を生み出していったのである。80年代半ばから徐々にメディア関連企業や学術機関などが増えていったが、「薄汚れた産業都市」というイメージから脱却するのは21世紀に入ってしばらく経過してからだ。

ローンレディが言うところの「インダストリアルな風景」は、「薄汚れた産業都市」の残像と、いまだ取り残されたまま打ち捨てられている産業都市の遺産だろうが、彼女はそうした風景を否定的に扱うというよりは、目の前にあるいは記憶の中にあるがままの姿を捉えている。80年代中盤から産業構造の変化に合わせて少しずつ変わっていったマンチェスターだが、マンチェスター産の音楽もこの時期を境に、俗にマッドチェスターと呼ばれる、より享楽的なものへと変わっていった。彼女が影響を受けていたのは、その音から察する限りはアーリィ80’sだろうし、それは彼女の言う「インダストリアルな風景」とも合致する。自身のサイト「CONCRETE RETREAT」(これは自分のホームスタジオの名前でもある)の中で、『ヒンターランド』について彼女はこう述べている。「マンチェスターの街外れの荒廃した印象、子供の頃の遊び場、そして隠された心情風景を呼び起こす」と。 このあたりの事柄から彼女のファッションを眺めてみると、コンクリート色の街にあって、一見溶け込みそうでありながら強いコントラストを生む黒を基調にしたクリーンかつモードなスタイリングが目につく。マンチェスターの灰色の風景を濃縮還元すると、音楽もファッションもこうしたものに着地するのではないだろうか。

冒頭に岡崎京子の①アーリィ80’sと②85年以降という話を引いたのは、ローンレディの音楽、佇まいが①の考えにピタリと合致するように思えたからだ。そしてまた1985年頃から始まった、新しい時代への転換がようやく終わろうとする2015年に『ヒンターランド』という、アーリィ80’sの総決算すなわち20世紀の総決算とも言えそうなアルバムをリリースしたことにも興味を持った。本格的な21世紀となってから出ることとなる次作がどうなるかも気になるところである。

<追記>

今回、本稿作成にあたり、ローンレディ=ジュリー・キャンベルにいくつかの質問を投げかけていた。回答を得るのにやや時間を要してしまったので本文には反映させられなかったが、アーティスト本人の貴重な言葉に触れるよい機会なので、ここに記しておこうと思う。間に入ってやりとりをしていただいたBEATINKの田中木里子さんにこの場を借りてお礼申し上げます。

Q. レイト70’s〜アーリー80’sを思わせる音楽を作っていらっしゃいますが、その時代のファッションはなにか影響を受けたことがありますか?

A. その時代のポストパンクを愛してるの。それと建物や風景も当時のものが好き。私のファッションに対しても興味はそれらに通じてると思う。当時のバンドのヴィジュアルから直接影響を受けたり、まねたりすることはないけど、潜在意識の中に存在してるんじゃないかしら。

Q. ジャー・ウォブル、キース・レヴィンとの仕事はどのようにして始まったのですか? また、そうしたレジェンドたちとの共同作業は『ヒンターランド』の制作に何らかの影響を与えているのでしょうか?

A. ジャー・ウォブルが別の用事で「ワープ」を訪れたときに、なぜか私の話題になったらしいの。『サイキック・ライフ』とローンレディ作品はまったく違うプロジェクトだと思ってる。違う方法で自分を知ってもらえたのはよかったと思うけど『ヒンターランド』を作る際には、『サイキック・ライフ』以前に自分の頭にあった考えに立ち戻った。ジャー・ウォブルと私はファンクに対する愛情を共有してた。といっても『ヒンターランド』の曲の多くは、彼に会う前から私の頭の中にスケッチとしてすでに存在していたものなの。

Q. モノトーンのスタイリッシュなファッションが多いように見受けられます。好きなファッションのスタイルやブランドがあれば教えてください。

A. 女性向けのデザインは、細かい装飾が多すぎるように思う。私ははっきりしたシンプルなデザインが好き。

Q. アルバムのアートワークやMVの演出など、ヴィジュアル表現について大事にしていることはありますか?

A. ここ数年、自分のまわりの環境、特に辺境的な、荒廃した場所や、コンクリートの建物なんかをドキュメントするのが自然な制作プロセスになっていたの。それらはなぜか私の作る音楽に呼応する。『ヒンターランド』のアートワークは、それを映したものなの。ライブでもそれらを撮影した映像をプロジェクションで流したりして、オーディエンスを現実とは離れた空間へと導きたいって思ってる。単純にライブ会場でギグを見てるってだけじゃなく、独特な世界の中で、刺激を受けてほしいって思う。

青野賢一

青野賢一

BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。



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