第23回 アーサー・ラッセル―究極の折衷主義者の純朴な服

音楽家は服を着る by 青野賢一 2014年11月11日

ミニマル・ミュージック、アンダーグラウンド・ディスコ、フォークなど、一見相容れないような音楽を作り出し、1992年にエイズが原因で亡くなった後も、その影響力はいやますばかりのチェロ奏者/シンガー・ソングライター、アーサー・ラッセル。その素朴な出で立ちとともに、彼の軌跡を追ってみたい。

 

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CDショップでもiTunes Storeでも、音楽はジャンルでまとめて販売される事が多い。確かに、ジャズを求めているひとにヘビーメタルは不要かもしれないし、逆も然りかとは思う。演じる側にもそういう面はあるだろう。もちろん、ライブで縁遠いジャンルの作品を演奏することはあるかもしれないが、作品となると話は別だ。ところが、現代音楽とアンダーグラウンド・ディスコという、全く相容れなそうなジャンルを股にかけて活躍した男がいる。アーサー・ラッセルである。

アーサー・ラッセル(1951-1992)。ティム・ローレンスの労作『アーサー・ラッセル――ニューヨーク、音楽、その大いなる冒険』(山根夏実訳、P-Vine BOOKS刊)には、『ニューヨーク・タイムズ』がアーサー・ラッセルの死を報じた際の紹介文が記されている。すなわち「クラシックとポピュラー音楽を融合させたことで知られるチェリスト、歌手、そして作曲家」。実際、彼のやってきた事は、端的に言ってこのようなもので、それ以上でもそれ以下でもない。しかしながら、彼の音楽はそれこそジャンルを越えたリスナーから高い評価を得、死後20年以上経過した今もなお、私たちを刺激し続けているのもまた事実だ。そんな彼の音楽とその時代を考えてみようと思う。

1951年、チャールズ・アーサー・ラッセルとエミリー・アルソップの長男としてアイオワ州オスカルーサで生まれたチャールズ・アーサー・ラッセル(以下、アーサー・ラッセル)は、6歳のときにピアノを習いはじめ、8歳になるとトロンボーンへの転向を考えるも、弦楽器ならすぐにオーケストラに入団出来るという言葉からチェロを選択する。16歳になってアーサーはオスカルーサを出て、アイオワシティの友人の家に居候を始めた。その後、サンフランシスコに移り住み、1969年にはマリファナ絡みで逮捕、勾留される。未成年だったアーサーは実家に引き取られるか、18歳まで勾留され続けるかの選択を迫られたが、彼が選んだのはカイラス修験道という仏教系コミューンへの入所だった。何ともヒッピー/サイケデリック・ムーブメントの頃らしいエピソードである。

5年程のコミューン生活のなかで音楽により深く入り込んでゆき、音楽で身を立てようとニューヨークへ向かったアーサー・ラッセルは、23歳にしてザ・キッチン・センター・フォー・ビデオ・アンド・ミュージック(以下、ザ・キッチン)の音楽監督となった。ザ・キッチンは1971年にスタートしたアーティスト・コレクティヴ。実験的な音楽をはじめとするアヴァンギャルド芸術の発展に寄与し、現在もニューヨークで活動を行う非営利の団体である。アーサーは、アート音楽(現代音楽)とロックやポップスを融合させるようなプログラムを作り開催した。

ニューヨークに来た頃のアーサーは「痘痕に覆われた整った顔立ちにやや古風なチェックのシャツを好んだ彼はオタクのよう」だった(前掲『アーサー・ラッセル――ニューヨーク、音楽、その大いなる冒険』より)という。実際、写真を見るとチェックのネルシャツやCPOシャツを着ていて、実に素朴である。「彼は洒落た服を着たり洒落た車を乗り回すことには興味がなかった」(同前掲)。

70年代から80年代にかけて、ニューヨークのファッションシーンはどうだったか。70年代のモードはまだまだパリのものだったし、ファッションとしてのパンクは圧倒的にロンドンだったと言っていい。要はあまりぱっとしない時期だったのである。アメリカ国内はインフレと貧富格差が増大し、とりわけ70年代前半は1965年の移住に関する法規制緩和に伴い、南米、アジア、カリブ諸国からの移民も増加し、安価な労働力として使われたことと相まって失業率も高かった。こうした経済的な背景のなか、ニューヨーク市はアメリカにおける最も悲惨で危険な街としてのレッテルが貼られてしまったのだ。ニューヨークに暮らしていた比較的富裕な白人層は郊外に流出し、ダウンタウンにあった工場は閉鎖され、次第に廃墟のような様相を呈するようになった。

ところが、こうした状況を逆手に取って、ダウンタウンは芸術家のホームタウンとなる。工場用建築は別の用途で使うことに対する規制が厳しく、住居としてかなり安い値段で買い取ることが出来た。そこを突いて、芸術家たちは工場建築ならではの高い天井のいわゆるロフト・アパートメントとして使い、ギャラリーやスタジオも作ったのである。市がこのエリアの建物の使用規制を緩和し、名称も新たに「ソーホー」「トライベッカ」となった1970年代半ばには、ダウンタウンは一大芸術家コロニーと化したのであった。

こうした流れと歩調を合わせるように、ニューヨークにディスコの波が押し寄せてきた。ニッキー・シアーノの「ザ・ギャラリー」、ラリー・レヴァンがプレイした「パラダイス・ガラージ」といったディスコは、アーサーを含むダウンタウンのアーティストたちにも当然影響を及ぼしたし、ディスコは一種の社交場として機能してもいた(こうした中で「キス・ミー・アゲイン」や「イズ・イット・オール・オーバー・マイ・フェイス?」などの曲が生まれた)。このほか、グラフィティ、ヒップホップといったストリートに根ざしたカルチャーとも関連しつつ、ニューヨークは独自の文化を形成しながら80年代へと突入してゆくこととなった。わたし達が80年代ニューヨークのストリートファッションと言って思い浮かべるのは、このあたりの要素が絡まり合ったものである。

先にも述べたように、アーサー・ラッセルのファッションは至って素朴なものであった。チェックかストライプのシャツ、Tシャツ、クルーネックのセーター。そしていつからかは定かでないが “Master Mix”というロゴが入ったキャップが彼のお気に入りになっていた。2004年に発売された未発表音源集『コーリング・アウト・オブ・コンテクスト』のジャケットの写真および前掲書の書影で被っているのがそれである。先頃リリースされたトリビュートアルバム『マスター・ミックス:レッド・ホット+アーサー・ラッセル』のタイトル「マスター・ミックス」はこのキャップに由来しており、そのジャケットにはこの企画のために制作したキャップの写真が大きく使われている(アーサーが被っていたものとはマークが異なる)。

Master Mix: Red Hot + Arthur Russell

アーサーが被っていたキャップのロゴは、アメリカ中西部の家畜用飼料の会社のもの。言うまでもなく中西部はアーサー・ラッセルの出身地である。「アーサーのミックスには、ニューヨークに移植された麦畑のような感性、ゲイの感性、仏教的な感性がすべてひとつになっていた」(前掲『アーサー・ラッセル――ニューヨーク、音楽、その大いなる冒険』より)というゲイリー・ルーカスの言葉はまさに言い得て妙であるが、16歳のときにオスカルーサの家を出て、アイオワシティに移り、サンフランシスコ、そしてニューヨークのダウンタウンでその生涯を終えた彼にとって、出生の地アイオワはどういったものであったか? これは今となっては知る術もないが、なかなかニューヨークに馴染めなかったアーサーにとって、アイオワは愛着か嫌悪かはさておき、ひとつの確かな拠り所となっていたのは想像に難くない(ダイナソーLのアルバム『24→24 ミュージック』の「#3(イン・ザ・コーン・ベルト)」を思い出されたい)。

廃墟のようだったダウンタウンが再興し、やがてコマーシャル化してゆくという変化の時代にあって、大きく変わることのなかった彼のファッションは、かえってそのオルタナティヴな姿勢を感じさせるものではなかっただろうか。オスカルーサから始まった彼の人生=音楽は様々な出会いにより拡張していき、その動きは死ぬまで止まることはなかった。そうした純粋かつ究極のアマチュアイズムとでも言うべき音への探究心は、アイオワの麦畑、コーン・ベルトと地続きになっていたのかもしれない。アーサー・ラッセルのキャップを、チェックのシャツを見るたび、そう考えることしばしばである。

青野賢一

青野賢一

BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。



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