第11回 パティ・スミス―留まらない詩人

音楽家は服を着る by 青野賢一 2013年9月27日

「パンクの女王」とも言われるパティ・スミス。いわゆるステレオタイプなパンクとはやや趣を異にするその音楽とファッションはどこからやってきたのか? デビュー前の彼女のストーリーから探ってみる。

Patti Smith performing in Finland, 2007

Beni Köhler “Patti Smith performing in Finland, 2007″ [CC BY-SA]

充分に見た。ヴィジョンはあらゆる大気に見出された。
充分に持った。街々のざわめき、夕に、また日の下に、いつも変わらず。
充分に知った。停止する生。――おお「ざわめき」と「ヴィジョン」よ!
出的だ、新しい愛と響きのなかへ!
(思潮社刊、アルチュール・ランボー著、鈴村和成訳『新訳 イリュミナシオン』所収「出発」)

詩人、アルチュール・ランボー(1854-1891)は、寡作のひとであった。上に引いた『イリュミナシオン』が書かれた(とされる)のは1874年。彼が20歳のときであり、これ以降、詩作はしていない。この新訳の後記によれば、「『イリュミナシオン』は『季節』(引用者註:『地獄の季節』のこと)で宣言された詩作放棄を実行した詩集」であり、「詩のリミットに達し詩が詩を棄て去る場面」が映し出されているという。なるほど、「通りすがりの男」などと称されるランボーは、留まるということをしなかった。詩作を続けることは、そこに留まることを意味すると考えたのか、詩から離れ、職を転々とし、フランスから離れて各地に赴いた。つまり、書かないことで書くという逆説的な方法論であった。パティ・スミスは16歳のときに、この詩人の詩集を手に入れている。

1946年、イリノイ州シカゴで生まれたパティ・スミスは、読書好きだった両親の影響もあって、子どもの頃から言葉に親しんでいた。小さなときは病気がちで、空想に耽ってもいたそうである。8歳でニュージャージーの片田舎に転居し、父親は工場の夜勤をして生活費を捻出した。経済的にあまり恵まれた境遇ではなかったが(テレビなどはなかった)、読書と音楽は彼女をそうした現実から遠ざけることが出来た。この頃から、女の子らしい格好よりは、少年それもちょっと不良風のファッションを好んでいたということである(片目の弱視矯正のため眼帯も付けていた)。少女の頃も現在の容姿から大きく違わず、痩せていたパティは、そのことをコンプレックスに感じていたが、美術教師に見せてもらったモディリアーニの絵のなかの女性の体格に共感し、ファッション誌『VOGUE』のモデルのスリムな姿にも憧れるようになる。細いということを「美」と捉え、芸術および芸術家になら「分かってもらえる」と考えるようになっていったのである。

音楽は、当初、リトル・リチャードにはじまり、ジョン・コルトレーンやマイルス・ディヴィスといった黒人音楽を好んでいたが、ローリング・ストーンズを知って、グッとロックに踏み込むようになる(ストーンズはかなり「黒い」ロックであるが)。ほどなくして、母親がパティに買い与えたのがボブ・ディランのレコードであった。パティはディランの音に、言葉に深く傾倒していった。それまでバラバラの興味であった音楽と詩が、ここで結びついたのである。そして、アルチュール・ランボーの詩集と書店で偶然出会い、買い求めたのが16歳のときであった。学校へ行きながら、工場のパートの仕事もやっていたが、空いている時間があれば、ランボーの詩を読み耽った。ディランとランボーから多大な影響を受け、パティは自らの進む道を芸術に定める。ハイスクールでは美術を専攻し、大学でもそれを貫こうとするも、学費が払えない(その一部は免除になるのだが残りが払えない)ため、教員大学で奨学金を得て美術教師になるための勉強をするという選択をした。この教員大学の卒業を間近に控えた頃、妊娠が分かり、大学を辞めて出産。当時の経済状況から、その子どもを養子に出さざるを得なかった。

21歳のとき、工場での労働で得たわずかなお金を持ち、単身ニューヨークに渡った。先に記したように、芸術家は自分のことを「分かってくれる」という、思い込みにも近い考えがあったパティ・スミスが、この当時、ランボーやディランのようなアーティストの愛人になりたいと思っていたのはよく知られるところである。そうした空想を取り去り、自身も芸術家としてやってゆくことを決意させたのは、デビューアルバム『Horses』(1975年)などのジャケット写真を撮影したロバート・メイプルソープであった。

書店員をしながら、詩を書き、絵を描いた。やがて芸術家の巣窟であった「チェルシー・ホテル」に移り住み、現在は俳優としても知られる劇作家のサム・シェパードから戯曲の共作を依頼されたりして、徐々に活動が活発化する。1971年、アンディ・ウォーホルの初期共同制作者であるジェラルド・マランガの、セント・マークス教会での朗読会の前座として出演することとなったパティは、すでに知り合っていたギタリスト(当時はレコード屋の店員をやりながら音楽評論を書いていた)レニー・ケイのエレクトリック・ギターに詩を乗せてポエトリー・リーディングを行ったのである。

そう。最初は歌ではなく詩だったのだ。パティ・スミスの詩集『無垢の予兆』(東玲子訳、河出書房新社刊)によれば、彼女にとって「歌詞」と「詩」は別物だという。「歌詞にしない詩を書く」ということは、ランボーの「書かないことで書く」ということと、どことなく似たものを感じる。レコードという録音物に「定着」される。彼女にとって、歌詞とはそういうものだ。一方の詩は、書き留められこそするだろうが、いくらでも自在に変更可能であり、それ故、留まることはない。ずっと大切にしてきた詩というものを、生きた存在にするには、こうしたことも必要なのかもしれない。そんなことからか、パティ・スミスの代名詞である「パンクの女王」というのが、実はわたしにはあまりピンとこないのである。どちらかというと、詩人なのだ。

さて、最後になってしまったが、ファッションについて一言。古い映像やアルバムジャケットを見ても、女性的というよりは中性的な装いが多いということは明らかであるが、それは子どもの頃の好みだけではなく、ランボーやジャン・ジュネ、そしてメイプルソープといった人々との関係性も影響しているのかもしれない。メンズライクなジャケットを無造作に腕まくりをして着こなす様は、ロッカーというよりはやはり詩人の風情を感じずにはいられないのだが如何だろうか。近年は〈アン ドゥムルメステール〉や〈コム デ ギャルソン〉といたブランドを着ているというのはしっくりくるが、意外にも〈プラダ〉〈グッチ〉などもさらりと着ているところに、彼女の人生の要所要所に関係するパリ的な匂いも漂ってくる。

青野賢一

青野賢一

BEAMS クリエイティブディレクター
BEAMS RECORDS ディレクター
1968年東京生まれ。明治学院大学在学中にアルバイトとしてBEAMSに入社。卒業後社員となり、販売職を経てプレス職に。〈BEAMS RECORDS〉立ち上げや、ウェブ・スーパーバイザー兼務などの後、2010年より個人のソフト力を活かす、社長直轄部署「ビームス創造研究所」所属。執筆、編集、選曲、DJ、イベントや展示の企画運営、大学での講義など、BEAMSの外での活動を行う。著書に『迷宮行き』(天然文庫/BCCKS)がある。



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