Vol.06 お仕事交遊録~森雪之丞(作詞家、詩人)編

本間昭光のプロデューサーEYES by キーボード・マガジン編集部 2013年7月11日

今回のゲストは森雪之丞さん。言わずと知れた作詞家の大先輩です。もっとも最近では作詞家という枠を遥かに超えた幅広い活動をされています。70年代から現在まで時代のフロントマンでいらっしゃる氏の、深い話をたくさん聞かせていただきました。本記事の続きは、キーボード・マガジン2013年SUMMER号に掲載されております。ぜひチェックしてくださいね。
(取材日:2013年5月)

 

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ギター担いでデモ・テープを持ってディレクターのところに通った

 

本間 このコーナーでは、ゲストの皆さんに“キーボード”というものを外から見たときのご意見を伺いながら、キーボーディストとしての在り方を探っていこうと考えています。今日はよろしくお願いします。

 作詞家、あるいは詩人というのは、“風のキーボード”を弾いてますからね(笑)。指は使わないけど見えないキーボードを心の中ではじいて言葉を出してるということだと思うんですけど。

本間 言葉と言ったら、それこそ88鍵どころじゃないですもんね。

 とは言え、僕も子供のころはピアノを習いに通わされたことがあって。でも弟に押し付けて、自分は野球に行ってしまった。ただ、今や弟は、劇伴とかを作ったり、僕が無理矢理押し付けたキーボードで生計を立てているという(笑)。

本間 学生時代にバンドをやっていたときはギターだったんですか?

 うん、まぁギターは弾いていたんですけど、どっちかって言うと腰を振って踊って歌うという(笑)、イメージはデヴィッド・ボウイですからね。基本的には体の動きで見せるパフォーマンス的な要素が強かったですね。

本間 当時だったら、最先端どころか追いついてこれる人が少なかったですもんね。

 ある種の変人扱いですよ。髪の毛も腰くらいまであったし、10cmぐらいのハイヒールを履いてましたからね。大学時代に、電車でつり革につかまって立ってたら、前に座っているサラリーマンの酔っぱらってるオヤジにスケッチされましたから(笑)。

本間 四人囃子にゲスト・ボーカルとして参加するようになるのはその大学のころですか?

 知り合ったのは高校のときですね。そのころは、まだ4人じゃなくて、森園勝敏と岡井大二と中村真一の3人が、ザ・サンニンとしてやっていて。そのころの東京の高校には群制度っていうのがあって、1校じゃなくて“群”を受験するんです。それで、その地域の中で適当に学校を振られるという。四人囃子の連中とは同じ世代で、学校は違うんだけど、その群が一緒だったり中学の友達がそっちに行ったりっていうことで、同じ地域ではあったんですよね。それで仲良くなった。

本間 僕は大阪出身ですが、それがうらやましいんですよ。大阪には学区はあるんですが、横のつながりがなくて。軽音部同士の交流も特にないんですよね。

 僕らは中野、杉並、練馬のエリアの子なんですよ。例えば当時、大井町の方にはムーンライダーズがいたりして。そのころ東京では、そういうふうにエリアごとにバンドが登場してたんですよね。実は、僕が行っていた都立大泉は、亡くなられた深町純さんが軽音部を作ってくれたんです。深町さんは僕より6つくらい上だと思うんだけど、あの時代に深町さんがもぎ取ってくれた部室でした。そこをベースにやっていて。本間さんは、高校のときどんなバンドをやってたんですか?

本間 フュージョン系ですね。やってはいたんですけど、横に広がらなくて。街の小さい楽器屋さんに出入りしているような連中とはつながりができるんですけど。当時、大阪ヤマハに入っていくことがちょっと敷居の高いことだったんですよね。オーディションみたいなものがあって。そのころから、森俊之君とかはチック・コリアを弾かせたら関西で一番みたいな感じになっていて。ギターの古川正義君も同じ時期にいて、プロフェッショナル養成コースに入ってた。東京に出て来てその人たちと仲良しになったけど、大阪時代は交流もできなかったんですよね。そうなると、仕事場でいろいろ広げるしかないって、ダンスホールに弾きに行ったり。そこで譜面がバンマスから配られて、ボックス・ステップを踏むような感じのものばっかり弾いてました。

 ラテンとか?

本間 ラテンもあります。チャチャとかもあるし、そういうことを初見で全部やらされるんですよね。その当時の話を今一緒にできるのは、プロデューサーの島田昌典さんくらいで。

 僕らの時代はタイミング的にラッキーな、もろ黎明期だからね。四人囃子には、いつの間にかキーボードに坂下秀実が入って、ザ・サンニンが四人囃子になったときに彼らはみんなで借金してハモンドC-3を買ったんですよ。C-3がないとプログレにならないから。僕も触らせてもらったりしてました。ちょうどそのころ、加藤和彦さんの大功績だけど、日本で初めてPAシステムを導入して。だからサディスティック・ミカ・バンドと対バンすると、みんなPAでやれるんで、そのあたりからロックが成長していったんじゃないかな。

本間 森さんが作詞家/作曲家としてデビューしたのはいつですか?

 レコード・デビューは76年なんです。その前に、ドリフターズの映画に曲を使われて。それが75年ですね。僕は四人囃子のメンバーではないので、シンガー・ソングライターとしてどこかから出たいと思って、ギター担いで自分の作ったデモ・テープを持って、トリオレコードのディレクターのところに通ってたんですよ。ちょうどそのときトリオレコードが渡辺音楽出版と契約して、そのレーベルから木の実ナナさんが出すことになって。ディレクターに、“森君、君の歌はあまりうまくないけど人に書いてみる気はないかい?”って言われたんです(笑)。それで、もちろん何でもやりたいから、書いたんですよ。でも、まだ20歳そこそこのやつに、木の実ナナさんに向けた女としての詞なんて当然書けるはずもなく、見事にボツったんだけど。そしたら“森君、ドリフターズはどう?”って言われて。ドリフに挑戦したら見事ハマって、自分でもこれ面白いんじゃないの?っていうものが作れたんです(笑)。それでデビューしてしまったという。

本間 子供の憧れじゃないですか。

 でも本人は、バリバリのロック少年なんだよ。エレベーターのないナベプロのビルの階段を、自分のハイヒールの音を聞きながら3階ぐらいまで上った記憶がいまだにある(笑)。当時、創業者の渡辺晋社長がまだお元気で、毎週1回出版の制作会議があるんだけど、社長を前にしてみんなが輪になってプレゼンするんです。それについて社長が1つずつコメントを言う。それで、ギターを持って行って社長の前でドリフの歌を歌うと、“良くなったぞ”とか言われて。それを1年ぐらいやってリリースされたんですよ。さすがにそうやって通ってるもんだから、ドリフ担当以外の人たちも可愛がってくるようになって、その1人が松崎澄夫さんだったんです。松崎さんは、アン・ルイスとかを育てた方なんだけど、 “森君、ドリフだけを書きたいわけじゃないよね”って“うちで何か書きたいものある?”って聞いてくれたから、すごくファンだったキャンディーズに書きたい!って言ったら、ちょうどアルバムに3曲詞がないものがあって。それが、こういう仕事が楽しいと思うようになったきっかけかな。

 
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本間昭光

大阪府出身。作編曲家、キーボーディスト、プロデューサー。4歳よりピアノを始め、アマチュア・バンドでキーボードを担当する。松任谷正隆に作曲、アレンジを師事、その後本格的に活動を開始する。現在は、いきものがかりをはじめとし、ポルノグラフィティ、浜崎あゆみ、和太鼓チーム、倭の音楽プロデュースなど多数のアーティストを手がける。(www.bluesofa.co.jp/

 

森雪之丞

1954年1月14日生。東京都出身。作詞家、詩人。大学在学中からライブ活動を始め、四人囃子のゲスト・シンガーとしても活躍する。1976年に作詞/作曲家としてデビュー。以降、ポップスやアニメ・ソングのヒット曲を数多く生み出し、90年代以降は、布袋寅泰はじめ、hide、氷室京介などロック・アーティストの歌詞も手がける。これまでにリリースされた楽曲は2200曲を超え、2006年にはトリビュート・アルバム『Words of 雪之丞』が発売。近年は舞台、ミュージカルの世界でも活躍。2013年10月より公演されるミュージカル『ソング・ライターズ』では、脚本、作詞、音楽プロデュースを手がけている。

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