クラプトンの名盤『461オーシャン・ブールヴァード』『スローハンド』を支えた名ドラマー、ジェイミー・オールデイカーが緊急来日! 出自を語る貴重インタビューが実現

コラム by 大久保徹 2014年3月18日

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先日の来日公演も大成功に終わったエリック・クラプトン。彼の名盤『461オーシャン・ブールヴァード』や、『スローハンド』で、ドラムを務めた名手ジェイミー・オールデイカーが、昨年11月にお忍びで来日していた。友人であるギタリストの岸田邦雄を訪ねてのプライヴェート・ツアーであったが、そこで岸田がインタビューを敢行。内容は、ジェイミーのプロフィールや、70年代クラプトン・バンドの様子、そしてかつてのローカル・シーンの状況を説明する貴重なものとなった。ここで、岸田のご好意により、その全貌を特別に公開する。

エリック・クラプトンとの出会い

初めて来日したのは何年ですか?

ジェイミー・オールデイカー(以下、JO) 1974年だ。

エリック・クラプトンと、ですね?

JOそうだよ。

武道館の公演で?

JOうん。

最後の来日は?

JO1985年だったと思う。

それもクラプトンと?

JOそう。

70年代のクラプトンとのツアーやレコーディングは、いかがでしたか?

JO楽しかったよ。彼と一緒にやり始めたとき、まだ僕は22歳だったんだ。すべてが新鮮だったよ。エリックはヘロイン中毒から立ち直った後だったけど、ものすごく酒を飲んでいた。でも、彼は飲むとジャック・スパロウ(註:映画『パイレーツ・オブ・カリビアン』に登場する海賊)みたいな感じになっていて面白かったから、僕は気にならなかった。

そのときの演奏は……?

JO演奏面では、ジョージ・テリー(註:当時のクラプトン・バンドのセカンド・ギタリスト)にずいぶん頼っていたよ。『461オーシャン・ブールヴァード』(1974年作)が発売されて、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」がヒットしたので、レコード会社やマネージャーのロジャー・フォレスターがどんどんツアーをブッキングしちゃってね。どこも4〜5万人入るスタジアムでのショウで、アメリカでは1日2公演やったんだ。午後2時と7時の2回だね。大変だったけど楽しかった。あっという間に物事が進んで行ったね。僕が初めてレコーディングに参加したアルバムも『461オーシャン・ブールヴァード』だったけど、あれは2週間でレコーディングしたんだよ。

マイアミのクライテリア・スタジオでレコーディングしたんですよね。

JOうん。(プロデューサーの)トム・ダウドとね。レコーディングも、その後のツアーも、すべてレコード会社があらかじめ予約していたんだ。でも、エリックの体調がどんな感じなのかわからなくてね。ちゃんとレコーディングできるかどうか確信がなかったんだよ。(オクラホマ州の)タルサにいたディック・シムズ(key)と僕はカール・レイドル(b)に言われてマイアミに行ったので、それまでエリックやトム・ダウドと会ったことがなかった。スタジオではエリックの状態に応じて、実験的な感じでレコーディングしていたね。

スタジオに行くまで、エリックとは会ったことがなかったんですね。

JOああ。彼とはクライテリア・スタジオで(初めて)会ったんだ。ツアーも一緒にしたことがなかったしね。スタジオにはアル・ジャクソン(d)やジョー・ウォルシュ(g)がいて、僕が到着する前にちょっとだけレコーディングしていた。僕はその前にレオン・ラッセル(vo、p)とのツアーに参加していたので、一番最後にスタジオに着いたんだ。カールがエリックに「2人のキッズに連絡した」と言っていたらしいよ。

“キッズ”ですか?

JOまだ22歳だったからね(笑)。ディックは25歳だったかな。カールから「エリックのレコーディングに参加してみないか?」と誘われたんだ。僕はレオンとのギャップ・バンドのツアーが控えていたから迷ったんだけど、カールに「どっちかに決めろ」って言われてね。たぶんエリックの方を選んだのは正しい選択だったよ。それでマイアミに行ったんだ。ディックは僕より先に先に着いていたんだけど、エリックは最初ディックを僕だと思ったらしいよ(笑)。

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初めてのツアー

クラプトンとのツアーやレコーディングで、面白いエピソードはありますか?

JO僕らが到着して、まず「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をエリックと演奏したんだけど、それを見てトム・ダウドがロバート・スティッグウッドに電話して、「なかなかいいバンドだ」と言ったらロバートが「そのバンドでアルバムをレコーディングしよう」と決めたらしい。当時のビージーズのギタリストが、休暇先のジャマイカからボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの『バーニン』(1973年作)を買って来て、「みんな、このアルバムを聴け」って言ったんだ。「これはレゲエというジャマイカのカッコいい音楽だ」ってね。レゲエという音楽は、当時まだ未知のもので、74年の時点でレゲエを知っている人は誰もいなかったんだよ。アメリカでは、ってことだけどね。それでレコードをかけてみんなで聴いてみたんだ。「アイ・ショット・ザ・シェリフ」をやろうと言ったのはエリックだったよ。それであの曲をレコーディングしたんだ。2テイク録って、アルバムに収録されているのはその1つだよ。レコードが出たら、キャッシュ・ボックス、ビルボード、レコード・ワールド誌で同時に1位になった。ツアーに出る前のことだ。レコーディングが終わると、ツアーのリハーサルのために(カリブ海の島国の)バルバドスへ行ったんだ。

ツアーの初日はどこで?

JO(北欧の)スカンジナヴィアだよ。コペンハーゲンとストックホルムでウォーミング・アップ・ショウをやったんだけど、初日のコペンハーゲンは良かった。2日目のストックホルムは……(註:記録によると、1974年6月19日に行われた初公演がスウェーデン・ストックホルムで、2日目の6月20日がデンマーク・コペンハーゲンとなっている)。

どうだったんですか?

JOうん、まぁ、エリックがショウの前にちょっと飲んでね。30分ほどプレイしたら「もうお終いだ」って。観客はあっけにとられていたよ。でも、エリックは30分しかやってないことも、観客が驚いていることも、まったくわかってなかった。

すごい話ですね。

JOでも彼は本当に面白い男なんだ。2ヵ月ほど前もLAで一緒にレコーディングしたんだよ。

J.J.ケイルのトリビュート・アルバムですね。

JOうん。もう酒は飲んでないけど相変わらず面白い男だった。ユーモアのセンスたっぷりでね。今でもトラブル・メーカーだけど(笑)。

エリックと会うのは、ひさしぶりだったのでは?

JOずっと連絡は取り合っていたよ。僕がテキサスに住んでいたときは、彼がテキサスに来れば会っていたし、去年オクラハマに引っ越した後にはオクラハマでも会った。その間も連絡を取り合っていて、僕が『マッド・ドックス&オーキーズ』(2005年作)をレコーディングしたときも参加してくれた。友情はずっと続いてるのさ。当時のメンバーで、今でも彼とのつき合いが続いているのはたぶん僕だけじゃないかな。

あなたは、他のメンバーと連絡を取っていますか?

JOうん。ジョージ・テリーやマーシー・レヴィ(cho)とはね。イヴォンヌ(エリマン/cho)とは取ってないよ。彼女はハワイに住んでいるんじゃないかな。

去年来日しましたよ。

JOそうなんだ。彼女とはずっとご無沙汰だ。当時の連中はもうつき合っていないか、死んだか、どっちかの場合が多いけどね。エリックのパーソナル・アシスタントをやっていたナイジェルは今でも連絡を取っているよ。ロジャーは誰とも会いたくないみたいだ。エリックとも、まったく連絡を取っていないみたいだし。ミュージシャンに関しては、死んでしまった人が多いね。今でも活動している人は少ない。エリックと僕だけは、しょっちゅうEメールをやり取りしたりしていて、僕が自伝を出す予定なのも知っている。「本の進み具合いはどうだい?」なんて聞いてくるよ(笑)。本の中で、僕はエリックの個人的なことは書いていないんだ。さっき言ったけど“ジャック・スパロウみたいな感じだ”っていう表現を使っている。彼はそれが気に入ってるみたいだよ。みんな、当時のエリックはただのを酔っ払いだと思っていて、ツアーのレヴューも最悪だった。演奏がひどかったとか書かれたよ。でもバンドをやっている立場としては楽しかったな。最初のショウで、彼は観客席にジャンプしたんだ。観客が喧嘩しているのを見て、彼はそこにジャンプして……。

喧嘩に加わった?

JOその通り(笑)。面白いヤツだろ? 彼は今では僕の親友さ。

▲1978年に行われたエリック・クラプトンのツアー・ドキュメント映像。もちろんジェイミー・オールデイカーも参加。

クラプトン・バンド脱退後

クラプトンのバンドを辞めた後、エース・フレイリー(g)とプレイしたり、トラクターズというバンドをやっていたりしましたよね。

JO時系列に説明しようか。72年はボブ・シーガーとプレイしていて、「ターン・ザ・ページ」(73年発表のアルバム『Back in ‘72』からのシングル曲)のレコーディングでドラムを叩いたりしていた。その後は、レオン・ラッセル、J.J.ケイル、ギャップ・バンドとプレイしていて、74年から79年まではエリックとやりだした。76年にはボブ・シーガーのシルバー・ブレット・バンドに加わり、エリックのバンドと並行して活動していたんだけど、正式メンバーにならないかと誘われ、断ったんだ。エリックとのバンドがあったからね。それで僕の友人のデヴィッド・ティーガーデンがドラマーとして加わったんだ。79年にエリックがバンドを解散させた2週間後、ピーター・フランプトン(vo、g)とツアーに出た。しばらくピーターとプレイした後は友人であり、カントリー・ミュージシャンの大物のボニー・ダンと一緒にやっていたんだけど、またピーターと一緒にやることになった。その後、エース・フレイリーやスティーヴン・スティルス(g)とプレイしていて……エースとは1989年、スティルスとは91年頃まで一緒にやっていたかな。あとはデイヴ・エドモンズ(vo、g)ともプレイしたりして、かなり忙しかったよ。それで1992年にトラクターズに参加して、レコーディングを始め、1994年にアルバムをリリースした。トラクターズには2002年くらいまでいたかな。その後はちょっと休んで、自分のアルバム『マッド・ドックス&オーキーズ』を作り始めたんだ。エリック・クラプトン、ヴィンス・ギル(g)、タジ・マハール(g)などが参加してくれたよ。その後はテキサスのアーティストのプロデュースをしたり、テレビ番組の音楽プロデューサーをやったりしていたけど、今は自伝に専念している。最近ではピーター・ローワンというブルー・グラスのアーティストとも一緒にプレイした。彼はビル・モンローやジェリー・ダグラス、アリソン・クラウスの兄貴のヴィクター・クラウスなんかとプレイしていたオールド・スクール・カントリー・ミュージシャンで、一緒にやっていて楽しいよ。ざっと説明したけどこんなところかな。エース・フレイリーとのバンドも楽しかったね。へヴィ・メタルはやったことがなかったから新しいジャンルの音楽で楽しかったよ。アントン・フィグってドラマー知ってる?

いえ。

JO彼はデヴィッド・レターマン・ショーに出ているんだけど、彼がエースとやったことがあり、僕に電話してきたんだ。へヴィ・メタルをプレイするのは初めてだったけど楽しかったよ。まさに映画『スパイナル・タップ』の世界だったね(笑)。あの映画はかなりへヴィ・メタルの現実に近いよ。エースも面白いヤツでね。へヴィなロックンロールのいいギターを弾くんだ。音がデカかったけど(笑)。あの世界を見ることができて、いい経験をさせてもらったよ。ラッキーなことに僕はいろいろなジャンルのアーティストと一緒にプレイすることができた。それぞれいいアーティストだったし、面白かった。エリックとやっていたおかげで日本にもよく来られた。

私は2006年から2007年までアメリカでライヴをやったり、テキサスで(自分のアルバム)『SLIDEAWAY』をレコーディングしたのですが――。

JOパルミラ・スタジオだったね。

あのとき、あなたはまだテキサスに住んでいたんですよね。

JOうん。2005年にテキサスに移ったんだ。トラクターズ時代はナッシュヴィルにいた。あとはウィルス・アラン・ラムゼイと仕事をしたりしていた。彼は『マッド・ドッグス&オーキーズ』の中でクラプトンが参加しているM2「Positively」の作者なんだよ。彼はソングライターで、ジミー・バフェット(vo)の曲を書いたり、キャプテン&テニールがカヴァーした「Muskrat Love(邦題:恋のデュエット)」を書いたんだ。70年代はシェルター・レコードのアーティストだった。

現在の活動

ヤマハ・ドラムの話をしましょう。あなたはヤマハがエンドース契約した最初の2人のうちの1人だったとか。

JO最初の3人のうちの1人だよ。最初の1人はジャズ・ドラマーのアル・フォスターで、次が僕とサンタナのドラマーのレオン“エンドゥグ”チャンクラーだった。ハギさん(註:当時、ヤマハに在籍した萩原尚氏)がドラム部門の責任者でね。彼はミスター・ヤマハだ。ヤマハは素晴らしい楽器を作り続けているね。

あなたはずっとヤマハを使っているんですよね?

JO約40年になるよ。

ヤマハのドラムはどうですか?

JOファンタスティックだよ。

具体的にはどこが?

JOサウンドだ。エンジニアリングも、ハードウェアも、デザインもだけどね。あとスタッフが素晴らしい。会社を移った人、定年退職した人、人事異動で部署が変わった人など、スタッフは入れ替わっているけど楽器の品質は変わらず素晴らしいね。

スタッフと話をして、何かアドバイスしたりすることもあるんですか?

JOあるよ。一番最初は改良の余地があった。だからエンドースするにあたって、どこを変えたいか、それまで使っていたドラムのどこが気に入っていたのか、などを話して、いろいろアドバイスをしたんだ。気に入らないところがあれば意見を言って、改良してもらったよ。それでどんどん良い製品ができていったんだ。当時、彼らはドラムに関して経験がなかったからね。そうやってシステム・ドラムを作ったんだ。あれはハギがデザインしたものだよ。ヤマハは本当に大きな会社になったよね。今や世界中の人が知っている。ヤマハに対しては何の不満もないよ。ずっとヤマハを使っているけど、とにかくサウンドが素晴らしいんだ。

2ヵ月くらい前(取材は2013年11月27日に実施)にJ.J.ケイルのトリビュート・アルバムをレコーディングしましたよね。そのときの様子を話していただけますか?

JOロスのオーシャン・ウェイ・スタジオでレコーディングしたんだ。

エリックから連絡がきたんですよね。

JOああ。

メールで?

JOいや、電話だ。オクラホマの自宅にいて、ホームセンターに行こうとしていたら電話が鳴ったんだ。国際電話だったので表示されている番号が長くてね。知らない番号だったから出るのをやめようと思ったけど思い直して出たら、エリックからだった。それで、LAに行ったのさ。スタジオにはトム・ペティ、ジョン・メイヤーなどがいてね。

エリックが集めたんですね。

JOそうさ。それぞれ自分が好きなJ.J.ケイルの曲を演奏することになっていた。あとはジョン(J.J.ケイル)の未亡人が見つけた未発表の曲をレコーディングしたんだ。

あなたは全曲に参加したんですか?

JOいや、4曲か5曲かな。スタジオにはドラマーが4人いたんだ。全員タルサ出身のドラマーだったよ。ジム・ケルトナー、デヴィッド・ティーガーデン、ジミー・カースティン、それに僕だ。みんなJ.J.ケイルのレコーディングに参加していたドラマーだよ。ドラム・セットも4種類あってね。

レコーディングの期間は?

JO1週間だったかな。あとはプロデューサーのサイモン・クライミーとオハイオにあるエリックの家で少し作業して、どうなるかって感じだね。いいアルバムになると思うよ。エリックとはまた一緒にツアーに出ようなんて話をしていたんだ。来年(2014年)の4月くらいに新しいアルバムを出すみたいだから、そのツアーにね。僕がバンドにいた70年代が音楽的には一番良かったんじゃないかな。70年代のエリックが好きな人は多いよね。バンドも素晴らしかったし。でも僕は自分からエリックに電話してバンドに入れてくれというようなことはしない。彼が僕を必要だと思えば電話してくるからね。

▲ジェイミーが参加したザ・トラクターズのPV。

オクラホマとの関わり

自伝の執筆はどのくらい進んでいますか?

JO1978年のところまで終わったよ。書いているのは僕じゃなくマーク・ロバーティなんだ(訳注:彼は80年代クラプトンのオフィシャル・ファンクラブをやっていて、その後クラプトンの本を何冊か書いている)。22歳のとき、エリックの家に泊まってふと起きると、男が僕のベッドのところに座ってウクレレを弾いているんだ。半分眠りながら「この人は、あの4人の中の1人だ」なんて思ったんだけど、それはつまりビートルズのメンバーの1人のジョージ・ハリスンだったんだ。エリックの家にいるといろんな人が訪ねてきたよ。ジェフ・ベック、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、エルトン・ジョン……みんなよくエリックの家に来ていた。来て、ビールを飲みながら「もうすぐツアーに出るんだ」なんて話をしていたな。僕は自伝ができたら、自分のキャリアや当時の社会的なこと、スタッフの証言、マッド・ドッグス時代の映像、エリックとの映像などをヴィデオにまとめ、バックに音楽をつけて、マルチメディア・トーク・ショウ・ツアーに出ようと思っているんだ。各地で当時の話をして、質疑応答もして、たまにはライヴもやったりしてね。僕はオクラホマ州のアートや音楽をプロモートしているのでオクラホマ州からもサポートしてもらえるんだ。自分の本の宣伝ばかりじゃ、聞いている方も飽きてしまうから、地元のカルチャーを紹介しながら楽しいトーク・ショウにするよ。

本の完成予定はいつですか?

JO2014年の秋だよ。早く完成しないと読者が死んでしまうからね。当時のことをよく聞かれるので、本に残すことが大事だと思ったのさ。

それにしても、タルサからはどうして素晴らしいミュージシャンたちがたくさん出てきたんでしょう。想像なのですが、レオン・ラッセルがそのきっかけを作ったんじゃないかと思うんです。彼がLAに行って、タルサからミュージシャンを呼び寄せたというような経緯なのではないかと。

JOたぶんね。僕やディック・シムズは若かったから、レオンから直接じゃなくて、カール・レイドルから声をかけてもらったんだ。あとはタルサにはたくさんクラブがあって、音楽に接する機会が多かったから、ミュージシャン達が育ったんだろうね。そこで腕を磨いて世に出て行ったんだ。若いミュージシャンをサポートする土壌があったんだ。

LAとのつながりも深いんですよね。30年代にオクラホマからカリフォルニアに移り住んだ人達がたくさんいて。

JOうん、ダストボール(砂嵐)でね。だから、カリフォルニアにはたくさんオクラホマ人が住んでいるんだ。レオン・ラッセルの「シュート・アウト・オン・ザ・プランテーション」という曲の歌詞を見るとわかるけど、あの曲はタルサ・ガイのことを歌っているんだ。本当にあの周辺のミュージシャンは多いよね。ジェシ・エド・デイヴィスもオクラホマ出身だ。

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