音楽作品を、「教育」に配慮して批評するメディアが必要―原雅明

ネットと音楽、いまとこれから by ドミニク・チェン 2013/08/12

今回は原雅明さんにインタビューを行いました。原さんはあらゆる音楽ジャンルを横断しながらプロデューサー、キュレーター、ライター、レーベルオーナーといった仕事を展開し、DublabやLow End Theoryといったアメリカ西海岸の先鋭的な音楽カルチャーを日本に紹介し続けています。著書『音楽から解き放たれるために―21世紀のサウンドリサイクル』(フィルムアート社、2009)の中で2000年代を通して変容し続ける音楽シーンを論じ、同時にオルタナティブな音楽の在り方をさまざまな企画を通して実践しています。私は原さんとINTO INFINITYというCCライセンスが関連したプロジェクトで協同させて頂いて、その後CLOUDというSoundCloudを活用したリミックス企画でもご一緒しました。今、一番聞きたいことを原さんにお尋ねしました。

Q. この10年間、インターネットとコンピュータ技術が世界に浸透してきた中で、原さんご自身の音楽観に対して一番大きな影響や変化を与えたものは何ですか?

原雅明 Myspaceから始まって、YouTube、SoundCloudなどへと広まっていった音楽の「シェアの文化」ですね。レーベルにしても、アーティストにしても、このシェアの文化から逃れることはできないし、その環境を前提として、これから何ができるのかをそれぞれの立場で考え直す大きなきっかけになったと思います。

Q. MySpaceでSNSと音楽が邂逅し、YouTubeは過去の膨大な音源アーカイブと化して、SoundCloudはリスナーや他のアーティストとつながるプラットフォームになっていると考えれば、確実にアーティストがウェブで発表する土台が整備されつつあると思います。原さんから見て音楽の作り手側の現在の課題は何だとお考えですか?

原雅明 アーティストや作り手にいかに還元されるかは、常に考えるところです。SoundCloudはクリエイター寄りで、リスナーとしてチェックしているのはコアな人たちだと思いますし、一方でYouTubeは一般の人にとってラジオ代わりになっている感があります。それに対してBandcampは、作り手と熱心にネット音源を掘っている人の間ではある程度機能を果たしているように思います。なので課金という意味ではBandcampがひとつ基準になっているとも思いますが、一般的なプラットフォームになるにはまだ敷居が高いですね。
音楽のクラウド化は止めようがないものだと感じつつ、サブスクリプション・サービスは欧米でも議論を呼んでいます。だから、課題を考えるにしても、まずはサブスクリプション・サービスが始まらないことには話にならないと思うのです。

Q. 旧来の音楽産業モデルの終焉を先見しながら「サウンドリサイクル」という現象/概念に希望を託された著書『音楽から解き放たれるために』が刊行されてから4年が経とうとしています。2013年現在、音楽産業は生まれ変わっていると思いますか? また、音楽文化におけるサウンドリサイクルの状況は現在どのように評価できると思いますか?

原雅明 4年前に著書に記したときに予測したことは今も変わっていないように感じています。例えば、アナログ・レコードは延命するだろうという予測は、確実なものになったと感じます。
結局、データ配信/CD/アナログ・レコードのどの形態で音楽にアクセスするのか、という選択の自由度が増したことは、マーケットが小さくなった分、リスナーの要望に細かく対応せざるを得ないということなのでしょう。
その結果、我々はかつてないほど、膨大な音楽を聴ける環境に置かれていて、そこには悦びもあるし、恐怖もあります。
少し前にこういう記事を書きました。

この60タイトルのCDの並列/フラット化は、僕のような情報をある程度蓄えてしまった者には怖さを与えるものでもあります。しかし、そうは感じない若いリスナーもいるはずです。そういう人たちがここから何を聴き取るか、それが次なるサウンドリサイクルということなのかもしれません。

Q4. すでにネットによって、文脈を無視したフラットなアーカイブが提供されてきただけではなく、CDというパッケージメディアにおいてもリッチなコレクションがフラットに提示されているということですね。
シーンの登場と成長をリアルタイムで見知ったり、テキストを通して知る世代から隔絶した「新しい世代の人々」がどのように再発見するかということはまさに未知にして予測不可能なのだなと思いました。
そのことは、ブラジルのArthur Verocaiのアルバムが30年後にアメリカのヒップホップ・シーンによって再発掘され新たな文脈を生み出していったように、ポジティブな邂逅を生み出すものというイメージでいるのですが、逆に原さんが抱く「怖さ」とはどのようなものでしょうか?

原雅明 一言で言ってしまうと、「教育の欠如」ですね。
文脈にがんじがらめにならず、知らないでいることが美学になるのは一瞬で、かつ素晴らしい発見がもたらされもするのですが、その後は継承していく教育が必要です。しかしその教育の場は、まだ足りないように思います
一方で進んでいるマニアックな発掘は、新たな市場を開拓するような効果を生んでもいると思うのですが、教育的な部分がそこともっとリンクできないと、極端に閉じた行為で終わってしまう危惧があります。

Q.健全な新陳代謝のサイクルが必要ということですね。 The Rootsのクエストラブ(?uestlove)がまさに「ヒップホップをエンターテインメントだけではなく、教育としてもやろうと思う」とRBMAラジオで話していました。彼はまたオンラインメディアOkayplayerで独自に批評の場を作ろうとしていますね。
批評の役割は、新しい作品を大きな流れの中に位置づけて、継承のマップを描き出すことではないかと思います。 原さんは、現在の日本にはどのような教育的な音楽メディアが必要だと思いますか?

原雅明 クエストラブはRBMAのインタビューで、「昔から、評論家が大絶賛するレコードを作りたいと思ってた。図書館に行くと、ローリング・ストーン誌のヴィンス・アレッティのレコード・レビューを必ず読んでいたんだ。実家の壁には400のレコード・レビューがいまだに貼ってある」とも語ってました。また、こんなことも言っていました。
「自分がリスナーだったら好きになるような作品が作りたいんだ。素晴らしいライナー・ノーツや、レコード作りの製作工程に興味がある。(中略)全体像よりも細かいディテールが気になるんだよ」
クエストラヴの批評(家) に対するスタンスは、アーティストの中には多かれ少なかれあるものだと思うのです。いくら「批評家なんかワックだぜ」と言っても、 真っ当な 「批評」は欲しているものです。
ただ、そうした批評が読めるメディアが今は圧倒的に少ないですね。こと音楽に関しては、ある程度の共通認識が必要なプロレス的な批評ゲームがもう成立しにくいだろうなということです。今はたとえ同年代でも、本当に多種多様な音楽を聴いている。誰でもが通過する音楽というものが希薄だからこそ、教育的なものの必要性が問われていると思うのです。
だから、旧来の批評スタンスとは違う、教育に配慮したメディアが必要だと思います。それはどういうメディアなのか自分自身模索している段階ですが、前提になっているのは、そういう認識です。

Q.2013年現在、原さんが最も注目している音楽の経済や文化に関する動向は何ですか? また、原さんがもっとも注力しているプロジェクトについてぜひ教えてください。

原雅明 先のWIRED誌の音楽特集で、ブラック・アイド・ピーズのウィル・アイアムが、「“音楽を作ること”が“曲を売ること”ではない時代に突入した」という認識を示していました。それは代わりにライヴで儲けるという話ではなくて、音楽の在り方はもはやエンターテインメントに限定されないという話です。
エンターテインメントは、音楽の持っている1要素にすぎないという認識は、いま多くの人が実感していることのように思います。
その上で音楽とどう向き合っていくのかを考え、探る活動に注目していますし、自分も関わっていきたいと思います。

Q. それでは原さんは、音楽がエンターテインメントに限定されないとすれば、どのような他の要素が音楽に見出せるとお考えですか?
また、あえてビジネスの話をしてみると、従来の曲をリスナーが買うのとはまた別の音楽の消費や発見の仕方が出てきているということも関係してそうです。Spotifyのようなサービスはリスナーに受け入れられつつありますが、アーティスト側とは摩擦を起こしています。原さんはどのようなビジネスモデルが普及するといいと思いますか?

原雅明 音楽はますます、パフォーマンスと録音物とで役割が異なっていくだろうと思っています。例えばDJ でも、クラブのフロアでオーディエンスを踊らせるだけではなく、バーやカフェ、あるいはオープンスペースなどで、その環境に付随して、料理や酒をサーヴするように音楽を提供するという役割も出てきています。
そういうときの音楽の価値というのは、ライヴで聴く音楽とも、自宅やヘッドフォンで1人で聴く音楽とも違う性質を帯びていると思います。
ストリーミング型のサブスクリプション・サービスについては、当然必要とされるサービスだと思っています。トム・ヨークの反発はアーティスト側の声として耳を傾けるべきことですが、要はリスナーが何を選択し望んでいるか、そこを見ていく必要があります。

Q. 「料理や酒をサーヴするように音楽を提供する」と言うだけで音楽との関わり方のイメージが広がりますね。そう言われると、1人での聴取と集合型の聴取との間に、まだまだ多様な音楽のライフスタイルやサービスの種が眠っている気がします。今は音楽との関わり方が無数のサービスの形で提示されて、淘汰されていく過渡期にあるのでしょうか。
例えばラジオDJの選曲はセレンディピティ(価値あるものを見つける能力)が高いと思いますが、パーソナライズされた音楽カタログというのは原理的に閉じていく方向にあります。これは対立項なのか、もしくは新しい教育や文脈を構築するヒントなのでしょうか?

原雅明 実は、パーソナライゼーション機能に関してはあまり期待をしていません。現状でもamazonのオススメやiTunes DJの選曲がそんなに悪くないじゃん、と思う程度のものを提供してくれればいいと思っています。
それより旧来のラジオDJ、選曲者的な役割を担った人たちがより関わる可能性の方に興味を持ちます。パーソナライゼーションの過程で、新しい番組を提供することも可能なのではないかと思います。
あとはザッピングするような、ランダムなアクセスができる余地を残してもらえれば、そこから偶発的な出会いは生まれ、それを再利用した解釈や文脈ができる可能性もあるのではないでしょうか。

Q. 関連して、クラウド型になることで音楽の二次創作(リミックス、エディットなど)の様式がどのように変わるのか(もしくは変わらないのか)ということもとても興味深い問題だと思います。

原雅明 プロモ用のレコードを配布し、DJにかけてもらうための「レコード・プール」というシステムがあります。昔は実際にレコードを配っていましたが、2000年代半ばからはデジタル音源の配布に変わってきて、今ではデジタルのレコード・プール・サイトがたくさんあります。
僕はクラウド型のレコード・プールもあり得るだろうと思っていて、そこから二次制作の音源の配布スタイルも変化すると思っています
ただ一方では、レコードのような限定されたリリースによってのみ二次制作物の価値は保たれていくのかもしれない、という予感もしています。
リエディットなどが容易にできる環境になればなるほど、その傾向は強まっているように感じます。

Q. 原さんが中心となって手掛けていらっしゃるdublab.jpにはどのような具体的な目標やビジョンがありますか?また、ネットラジオというメディアで、旧来のラジオと比較して、一番評価している点は何でしょうか。

原雅明 dublab.jpは、jpの部分が特に大切だと思っています。dublab.comが 13年以上かけてやってきたことをそのまま日本で実現できるとも思っていないですし、ただスタイルを借りるだけでは意味がないとも思います。もっと言ってしまえば、dublabへの尊敬こそあれ、憧れみたいなものは今の僕にはまったくないです。
dublabはきっかけであって、ラジオ番組という場を作りたかったのです。ラジオが音楽に果たす役割の重要性と、その役割を持つラジオ番組が日本には決定的に足りないということが気になっていました
だから、dublab.jpをどう継続させ浸透させるのか、そこに腐心したいと思います。

Q. dublab本家にはない、dublab.jpオリジナルの取り組みや考え方を教えて頂けますか?

原雅明 僕らはdublab.comのように募金も募れないですし、NPO化も現状は難しいです。日本では音楽はアートではなく、公的な助成を得るには難しい分野です。
その中で、アーティストやブランドからのサポートでTシャツを売って運営費を賄うなど、スタンス的にも経済的にもなるべくニュートラルに活動を続けていく方法を模索しています。もしかしたら絵空事で終わってしまう可能性もありますが、「お金儲けではない」ということを形にしていきたいのです。

Q. 確かにランニング費用を稼げば運営を続けることはできますね。
その上で「お金儲けではない」というメッセージにこだわる理由は何ですか?
以前、「音楽で食えなくてもいいのではないか」という問題提起をされていましたが(2012年10月での美学校での対談時)、とても重要なご意見だと感じましたので補足をお願いします。

原雅明 「お金儲けではない」というエクスキューズをしたいわけではなくて、ほんとうは「ドネーション(寄付)」と言いたいところなんです。
ただ、何のための寄付なのか、という根本的な価値を示せているとはまだ思っておらず、これから続けていくことで見せていかないといけません。そのことは、dublab.jpの問題だけではなくて、音楽の価値を再考するきっかけにもなると思っています。

Q. Low End Theoryの動きとしては、昨年のビート・インビテーショナル(※)に中原昌也さんが出演されたことをきっかけにアルバムをリリースされるそうですね。原さんはビート・インビテーショナルの形式に、どのような新しい可能性を感じていますか?

原雅明 9/11にHair Stylistics(中原昌也)の『Dynamic Hate』というアルバムを出します。これは僕が彼にビートを作ってほしいと頼んで、形になったアルバムです。若いビート・メイカーにも聴いてもらえると嬉しいですね。
ビートは、 特にラップトップ以降の音楽の作り手にとって、ひとつの共通言語になっていると思います。ビート・インビテーショナルのような場では、普段裏方的な活動をすることが多かったビート・メイカーがパフォーマーとして振る舞うことができます。その共通言語は中原くんのような上の世代とも繋げることができると思います。そこに可能性を感じました。

Q. なぜ楽曲単位ではなくビートが現代の作り手の共通言語になっているのでしょうか?

原雅明 一般的な音楽ソフトを使った曲作りではグリッドという概念がベースにあります。つまり縦割りで楔を打ち込んでいくのが容易で、ビートの組み立てに特化しているのです。標準的な手法として広く浸透しているので、共通言語にもなりやすいのだと思います。
でも、Hair Stylisticsの今度のアルバムは、一切コンピュータは使っておらず、手で打ち込む、オールドスクールなスタイルで出来上がっているんですが。それも含めて、ビートという表現方法にはまだまだ自由があることを感じました

※ ビート・インビテーショナル:5分の持ち時間の中で、複数のビート・メイカーが未発表の最新オリジナル・ビートを次々と演奏するという形式のLow End Theory発の企画。日本では2012年6月30日に渋谷WWWで<ロウ・エンド・セオリー・ジャパン[Summer 2012 Edition]>が開催された。

ネット時代だからこそ、人間にフォーカスすることで場が生まれる

情報がフラット化することによって音楽に関する共通文脈の構築が困難な状況のなかで「教育」というキーワードが重要になってくるという原さんが、Dublab.jpの運営やLow End Theoryの招聘と日本独自の展開を加えていることを行っていることの意味が改めて深く理解できたように思います。それは古くさい「批評」を復古するようなことでは決してなく、あくまで享楽的に音楽を楽しみ、発見する文化的な重力場を作り出すということであり、選曲者やアーティスト、オーガナイザーといった「人間」にフォーカスを当て続けることがネットで録音物が簡単にアクセスできる今だからこそ重要だということが伝わってきました。
ネットとリアルを往復する原さんの多様な音楽活動に今後ともぜひご注目ください。

原 雅明

原 雅明

音楽ジャーナリスト/ライターとして執筆活動の傍ら、disques cordeレーベルや各種イヴェントの運営を手がけ、近年はLOW END THEORY JAPANや、非営利ネットラジオ局dublabの日本ブランチの企画にも関わる。Sound&Recording Magazineにてコラム「The Choice Is Yours」を連載中。単著『音楽から解き放たれるために──21世紀のサウンド・リサイクル』(フィルムアート社)。



ドミニク・チェン

ドミニク・チェン

1981年、東京生まれ、フランス国籍。博士(学際情報学)。NPO法人コモンスフィア(旧クリエイティブ・コモンズ・ジャパン)理事。株式会社ディヴィデュアル共同創業取締役。情報科学芸術大学院大学(IAMAS)非常勤講師。インターネットにおける自由文化(フリーカルチャー)の構築を目指すクリエイティブ・コモンズの活動を継続しながら、ウェブサービスやスマートフォン用アプリの開発を行っている。著書に『オープン化する創造の時代ー著作権を拡張するクリエイティブ・コモンズの方法論』、『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック クリエイティブ・コモンズによる創造の循環』がある。
Photo: Kenshu Shintsubo, 2013



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