第28回:島崎貴光インタビュー(前編)〜ダラダラ続けることが継続ではなく、本気で向かい合っていくことが継続なんだ

WEB版 職業作曲家への道 by 聞き手:山口哲一 2015/10/07

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プロの作曲家の創造の秘密を伺っていくこのシリーズ。今回は作曲家のみならず、幅広い形で音楽制作にかかわっている島崎貴光さんが登場です。自分の肩書、IDを増やしていくことが大事だという島崎さんの真意はどこに?

“すべてにおいて意識的”というのが、島崎さんの根底にあるのではないでしょうか。曲作りはもちろん、自分自身の見せ方、キャリア形成、そしてこれからの生き方。そういったことをすべて突き詰めて考え、行動に移していく。この真剣さは、現代のクリエイターには見習うところ大だと思います。挫折や焦りといったマイナスの地点からスタートし、現在の立場を築いた島崎さんの言葉に、ぜひ耳を傾けてください。

なおこのインタビューは、ミューズ音楽院で行なわれている無料セミナーシリーズ“作曲家リレートークvol.11”の模様を再構成したものです(イベント開催日:2015年4月28日)。

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ファーストシンセはEOS

山口 島崎さんは現在、作曲家のみならず作詞やアレンジ、原盤制作ディレクターとしても活躍されていて、『DTMマガジン』では8年以上の長寿連載“島崎塾”“島崎流”を執筆され、2015年には『これが知りたかった! 音楽制作の秘密100』という書籍も上梓、さらには新人育成にも積極的と、活動領域が多岐に渡っています。でも、音楽を志した当時はやはり、アーティスト志望だったということですね。

島崎 もともとはアーティスト志望でずっとやってきて、キーボーディストでユニットを組んでいたんですけど、とあることで挫折をしまして、作家を目指すという形になりました。

山口 アーティストを目指すことになったきっかけは?

島崎 1994年に高校に入ってすぐ、4月21日に“TMN終了”っていう全面広告が朝日新聞に出たんですね。TM NETWORKというグループの終了とともに東京ドームでライブをするということで、そこまでファンではなかったんですけど、見に行ったんです。そうしたら、小室哲哉さんがシンセサイザーに囲まれていまして、「なんだあれは?」と。それで、もうそのライブ中に、「僕はあそこに行く!」って思ったんです。その翌々日には、シンセを買おうと決意をしていました(笑)。

山口 高1ですから、良い年頃ですよね。

島崎 バイトなんかでお金を貯めてEOSを買って、高校生活は打ち込みとバンドのサポートに明け暮れていました。そこから、ずっとプロを目指して活動したんです。

山口 挫折したユニットというのは?

島崎 3人組みの男性ユニットで、「デビューさせる」と言われ、多数の楽曲のレコーディングまで進んでいたんです。でも、最後の最後に事務所の社長さんが「メンバーにラッパーを入れよう」と言い出して。20歳過ぎくらいのころですが、「これを断ったらデビューの話は消えるな」と分かってはいたんですけど、まだまだトガッていたので(笑)、「いくら社長の意見でも、それは拒否します」と。そうしたら、次の日に別のスタッフに呼び出されて、「あの話は無くなりましたから」って言われて、大人の厳しさを知り、お酒におぼれる日々になりました(笑)。

最初に決まった曲は玉置成実「Distance」

山口 そういった挫折を経て、作曲家になろうと思われたわけですね。

島崎 ユニットが消えてしまったので、僕はギタリストの相棒と制作チームを組んで、各方面に資料を送ったんです。まだネットが普及していない時代だったので、60曲入りのCD-R4枚組をあちこちに送りまして。そうしたら、いろいろな方から声をかけていただくようになって、最終的には今の事務所のスマイルカンパニーに拾っていただいた、という感じですね。

山口 スマイルカンパニーと作家契約を結んで、デビューを果たした。

島崎 もちろん最初は預かり作家という立場で、「試しにコンペをやってみるか?」という感じでした。

山口 そういう中で最初に決まったのが、玉置成実さんの「Distance」ということですね。

島崎 シングルのコンペがあるということで、1週間に3曲を作った中の1曲です。このときに詞も曲も採用されたというのが、自分の中ではプロの扉を開いたという実感がありました。ある意味では、曲には自信があったんですよ。その上で、詞も書けるんだ、評価されたんだというのが、光が見えた瞬間でした。

山口 当時は何歳くらいでした?

島崎 ちょうど25歳で、「25歳までに結果が出なかったら夢を諦めよう」と思っていたので、ギリギリ最後に決まった感じでした。

山口 でも25歳だったら、作家のデビューとしては遅くないと思いますよ。

島崎 そうなんですけど、実はそれ以前の話がありまして……。20歳ごろからエイベックスさんにお世話になっていて、周りのみんなが作家としてどんどん華々しくデビューしていったんですね。20代前半の作家を育成していて、僕はそれに乗れなかった。だから、25歳でデビューできていないとすごく辛い。そういう焦りがあったんですね。

山口 多胡邦夫さんが所属している、ティアブリッジプロダクションですよね。

島崎 ええ。当時は10人くらい若手が集まっていて、8人はデビューしたんじゃないでしょうか。デビューできなかったのは、僕ともう1人くらいで。そういう経験があって思ったのは、自分の中で過信していた部分もあったのではないか、一から勉強をし直そうということです。もともとアーティスト志望だったので、変にマニアックな曲づくりをしていたので、徹底的に日本のポップスを聴く生活をそこから始めましたね。

山口 貴重な体験でしたね。僕がプロ作曲家育成の「山口ゼミ」を始めて、2年経ったのですが、やはりライバルであり仲間であるという人達がいる「場」があることって、クリエイターが成長するために、本当に大切なんだなと感じています。「山口ゼミ」出身の作曲家から採用ケースがどんどん出ているのは、「場の力」なんですよ。

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自分の肩書、IDを増やしていくということ

山口 では続いての曲ですが、「はじまりのうた」(SMAP)は島崎さんの初期の代表作と言ってよいでしょう。

島崎 これは作詞・作曲・アレンジ・サウンドプロデュースまでやれたという意味で、すごくエポックになった曲です。実はこの曲をSMAPのコンペに出したときに、ツアーのためにアルバムを作るのが分かっていたんですね。今年コンペがあるということはライブがある、と。なので、ライブで皆さんが盛り上がる曲を絶対に作ろうというのは、自分の中では勝手に考えていました。だからそれを作って出したんですけど、見事に落ちました(笑)。でも、マネージャーさんに「これはSMAPさん用にイメージした曲だから、何度もプッシュしてください」ってお願いをして。で、何度かコンペがあったので何度もブラッシュアップしたりリメイクしたりして、出してもらったら、引っかかってくれたんです。

山口 ブラッシュアップというのは、どのようなことをされたのですか?

島崎 リズムの変更や、歌詞を6Versionくらい作り、仮歌もすべてレコーディングし直し、といったことを、繰り返していきました。

山口 なるほど。究極の提案型といえるかもしれないですね。ちなみに、サビに入ったところのベースラインが僕は好きでした。

島崎 ありがとうございます。ベースを弾いているのは、川崎哲平くんです。今では超有名ですけど、当時は全然無名だったのが懐かしいですね。

山口 しかし、1人で作詞・作曲・アレンジ・サウンドプロデュースというのはすごいですよね。

島崎 やっぱり曲の提供だけだと、一般の方と同じタイミングでリリースを知ることになったり(笑)、Dメロが消えていたりすることもあります。だから作曲だけよりは、アレンジまできちんとやって、現場にも行けると良いですよね。

山口 プロデュースをすることでアーティストとの関係性も濃くなるし、付き合い方もだいぶ変わりますからね。

島崎 コーラスのディレクションをできる現場もありますし、その評判が良ければ、「次もお願いします」ということになる。だから自分の肩書、IDを増やしていくということは、いつも意識していることですね。

山口 素晴らしいですね。この“作曲家リレートーク”では毎回事前にメールで予備のアンケートをお送りしているのですが、島崎さんほどツボを心得た答えを書かれた人は初めてなんですよ。だから「こんなに社会性のある作曲家も珍しいな」、と思っていました。でもお話を伺えば伺うほど、なぜアンケートが完璧だったのかが分かりますね。

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長尾大のアシスタント時代

山口 音楽を始めたきっかけはTMNということでしたが、島崎さんが最も影響を受けたアーティストは誰でしょう?

島崎 Do As Infinityの長尾大さんですね。長尾さんが浜崎あゆみさんにたくさん曲を書いていた時代に、Do As Infinityを作って渋谷のハチ公前で毎日のように路上ライブをしていたんです。お客さんは毎回2〜3人でしたけど、僕はその中の1人でした。その時点では単純にファンとして、毎日行っていたわけです。関東サポーターズ代表になったくらいでした(笑)。でも作家を目指している状態で、目の前に尊敬している人がいたので、自分のCDをお渡ししたんです。そうしたら翌日電話がかかってきて、「ちょっと家に来てくれないか」と。そこから大さんの家で寝泊まりをして、大さんが作った曲を録音して、何となくのラフデモを作ってアレンジャーさんに渡したり……っていうのをやっていたんです。

山口 いわゆるボーヤ的なことをされていた。

島崎 そうなんです。目の前でどんどん曲が出て行くので、「これを天才っていうんだな」って思いました。転調も簡単に使いこなされますし、ぱっと歌ったメロディがレコード大賞を獲ったりする。そういう現場を見ていたので、なかなか普通では勉強できないことを体験できたのは大きかったです。

山口 それはお幾つのころですか?

島崎 大学1〜2年の2年間くらいですね。でもさっきも言いましたが、その間に他の作家がどんどんブレイクしていくんですね。そういう中で最後に大さんが、「このままだと埋もれてしまう、島崎の曲は絶対に世に出るから、いったんエイベックスを離れろ」と言ってくださって。

山口 長尾さんのアシスタントをしながら、エイベックスの作家としてデモを出していたわけですね。でも、なかなか決まらない辛い時期で、エイベックスを離れる後押しを師匠がしてくれた。

島崎  他の作家さんのアシスタントやアレンジを担当していた時期もあったので、たぶん周りからも、「あ、作家志望だったんだ?」って思われるような活動になっていたんでしょうね。職業作曲家的なスタンスが、全く成功していなかった時期です。

山口 アーティストから作家へシフトする際には、よく起きてしまうことですよね。

島崎 そんな中で大さんによく言われたのが、“継続はチカラなり”という言葉でした。でも、当時はトガッていた部分もあったので(笑)、「そんなことは分かっているよ」「やり続けることはなかなかできないんだよ」「継続できたあなただから、そんなことを言えるんだよ」なんて思っていた時期もありました。でも、今となってはよく分かります。ダラダラ続けることが継続ではなく、本気で向かい合っていくこと、逃げないで向かって行くことが継続なんだって。そのことをすごく思い知らされまして、“継続はチカラなり”という言葉は今でも絶対に忘れないようにしています。「なんか、諦めそう……」っていうときが、1年に10回くらいあったとするじゃないですか?

山口 そんなにあるんですか?(笑)。

島崎 あります(笑)。でも、その10回でいつも思うんです。「いや、ここで止めたら、今まで継続してきたものを全部なくすことになる」って。そう思ったら前に一歩踏み出せる。ですから、とても大事な言葉ですね。

山口 プロの音楽家になるのは、プロ野球やサッカーと同じくらい大変なことですが、アスリートと違うのは「選手寿命が長いこと」です。ライフワークとして音楽を仕事にできるのが、プロ作曲家の大変さでもあるけれど、幸せでもあるなと思います。

(後編に続きます)

POSTSCRIPT by 山口哲一

第一線の作曲家、サウンドプロデューサーと対談するイベント「作曲家リレートーク」も11回目になりますが、島崎さんほど、きちんとしっかりした方は初めてでした。音楽の才能があって、聡明なだけでなく、業界の事情も理解して、社会性も持っているクリエイターで、本当に感心しました。

島崎さんは1978年生まれ。僕から見ると完全に1つ下の世代ですが、自己責任の意味がきちんと分かっている大人でした。

長年、若い音楽家と仕事をしていて、「良いことは自分の手柄で、お金はもらえて当然。悪いことは、スタッフや世間のせいにする」自己中心的な音楽家も見てきました。島崎さんがイベントの中でも語っていたように、そういう人は続けられずに、「元プロ」か「自称音楽家」になっていきます。僕が世に出した中にも、きちんと教育することができずに、そうなっているケースがあって、残念に思っています。けれど、島崎さんみたいな人がしっかり生き残って活躍してくれているなら、日本の音楽界の未来も明るいと思えて、うれしくなりました。音楽をライフワークとして「継続」できる人が残っていけば良いのが、プロの音楽家なのでしょう。

島崎貴光(しまざき・たかみつ)

音楽プロデューサー/作曲家/作詞家/編曲家/ディレクター。

株式会社スマイルカンパニーと専属作家契約を結び、J-POP シーンを中心に、アーティスト、グループ、アイドル、アニメ音楽やゲーム音楽など、幅広い分野で数多くの音楽制作を手掛ける。

2006 年「第48 回日本レコード大賞」において、w-inds.「ブギウギ66」、中ノ森BAND「Fly High」の2作品で「レコード大賞金賞」を2作品同時受賞という快挙を成し遂げる。また2011 年には第47 回日本クラウンヒット賞においてSKE48「青空片想い」(作曲)が「シングルヒット賞」を受賞。同年の8月に発売されたSMAP の20 周年ベスト・アルバム『SMAP AID』にて、「はじまりのうた」(作詞/作曲/編曲/サウンド・プロデュース)が、SMAP 全楽曲を対象としたファン投票にて2位を獲得。ランティスよりメジャー・デビューした女性ソロ・アーティスト「凛」のプロデュース&全楽曲提供も行う。

2004 年に自身が立ち上げた作家育成講座「MJ-Studio」では作詞/作編曲講座を行い、10 年以上にわたって大勢の預かり作家、事務所所属作家、プロ作家を輩出。2014 年より講座名を「MUSiC GARDEN」に変更し、現在も後進の育成にあたっている。そのほか月刊誌「DTM マガジン」にて8年以上にわたり連載記事を執筆し、現在も継続中。またリリック(作詞)アドバイザー、新人アーティスト/アイドルの育成&プロデュース、原盤制作ディレクターも務め、最近ではゲーム企画やプロデュースまで、多岐に渡る活動を続けている。

山口哲一(やまぐち・のりかず)

(株)バグ・コーポレーション代表取締役

『デジタルコンテンツ白書』(経済産業省監修)編集委員

音楽プロデューサー、コンテンツビジネス・エバンジェリスト。

国際基督教大(ICU)高校卒。早稲田大学在学中から音楽のプロデュースに関わり、中退。1989年、株式会社バグ・コーポレーションを設立。「SION」 「村上”ポンタ”秀一」「こだまさおり」のマネージメントや、「東京エスムジカ」「ピストルバルブ」「Sweet Vacation」などの個性的なアーティストを企画しデビューさせる。プロデュースのテーマに、新テクノロジー活用、グローバルな視点、異業種コラボレーションを掲げ、音楽ビジネスを実践している。2010年頃から著作活動を始め、国内外の音楽ビジネス状況の知見を活かし、音楽(コンテンツ)とITに 関する提言を続けている。エンタメ系スタートアップを対象としたアワード「START ME UP AWARDS」、ミュージシャンが参加するハッカソンとコーライティングセッションを同時開催する「クリエイターズキャンプ真鶴」をオーガナイズ。超実践型 作曲家育成セミナー「山口ゼミ」で音楽家の育成を、「ニューミドルマン養成講座」では、デジタル時代に対応した音楽ビジネスを担う人材の育成を行ってい る。2005年から2013年まで一般社団法人日本音楽制作者連盟の理事を、2011年から2012年に公益社団法人日本芸能実演団体協議会(芸団協)の 理事を務める。

著書多数、最新刊は、全分野のコンテンツビジネスをIT視点でビジネスパーソンに説く『10人に小さな発見を与えれば1000万人が動き出す。』(ローソンHMVエンタテイメント刊)、『新時代ミュージックビジネス最終講義』(弊社刊)。

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