第4回:インタビュー 大平太一(前編)〜コンペは楽曲の可能性を減らしている

WEB版 職業作曲家への道 by 聞き手:山口哲一 2013/08/29

音楽系のクリエイターにお話を伺っていくこの連載、今回はSCANDALの原盤制作ディレクターを務める大平太一さんをお招きしました。自身も作家、バンドマンとしての活動経験も持つ氏の音楽観をお届けします。

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THE REDSのリーダーとしてアーテイストデビュー。レコード会社のディレクター、インディーズレーベル主宰などの経験を経て、音楽プロデューサーとして活躍を続ける大平太一さん。ガールズバンドとして新境地を開いたSCANDALはデビュー前からディレクターとして携わってきました。

バンドマンだけど所属レコード会社の社員

山口 大平さんは高校の一年先輩で、16歳でお会いしています。一緒にバンドもやり、美意識や価値観で、とても影響を受けた人です。なので面と向かってこういうインタビューをするのはちょっと気恥ずかしいのですが、せっかくの機会なのでお話を伺います。まずは、もともとはバンドマンだった大平さんが、キティレコードのディレクターになった経緯なんですが。

大平 僕がキティレコードからデビューしたきっかけは、 コンテストでした。THE REDSというバンドでエントリーしたら優勝して、そのご褒美だった。バンドでキティと専属契約して作品を出すことになったんですけど、僕は最初から社員だったんです。

山口 噂には、伝説的なプロデューサーであるキティグループ創立者の多賀(英典)さんがコンテストを見ていて、「こいつの声は売れないだろう。でもプロデューサーとしては良いから社員にしろ!」っておっしゃったと聞いていますよ(笑)。

大平 ちょっと違う(笑)。多賀に初めて会いに行った時に、その前に1回ライブを見に来ているんですけど、開口一番「社員にならないか?」と言われたんです。それで「バンドは辞めろってことですか?」って聞いたら、「バンドでデビューさせてやるから、3年くらいやればいいい。でもたぶん売れないから、その3年間で勉強をして、その時にやる気があったらディレクターになれ」って。多賀はいま私がいる会社の会長職で、キティレコードの創立者。で、そういうムチャぶりが好きな人なんです(笑)。

山口 オーナーのクリエイター社長だからこそ可能だった話ですね。他には聞いたことが無い例です。

大平 そうでしょうね。まんまと多賀の思う壺で、言われた通りに3年後くらいにはバンドを解散して、「社員としてちゃんと働きます」となりました。だから、そこからのキャリアなんですよね。

1年間ずっと続いた歌入れ

山口 アーティスト活動はいかがでしたか?

大平 アルバム2枚分くらいの作品をリリースして、セールス的には失敗でした。自分の才能の無さを思い知りました。当時キティグループのプロダクション会社には安全地帯を筆頭に数多くのアーティストが所属していましたが、中でもバービーボーイズの絶頂期でアルバムを出せば1位という時期でした。そこで僕らはバービーのスタジアムツアーで前座をやらせてもらった。甲子園球場でも歌いました。これは得難い経験でしたね。

山口 アーティストからディレクターに転身するというのは大きな転身だと思うのですが、気持ち的にはどうでした?

大平 もちろんバンドを辞める時は悩みました。だけど、バンドをやったおかげの出会いもあって、例えば金子章平さんというキティのプロデューサーに出会わなかったら、僕はディレクターになっていなかったでしょう。最も影響を受けた師匠です。

山口 KITTYは多賀さんのT、金子さんのKなど、創業者5人のイニシャルから取られた社名ということですが、大平さんはその内の2人とかなり深くかかわっている。

大平 金子さんはポリドール時代に遠藤賢司や中山ラビを発掘し、井上陽水やカルメンマキ&OZ、安全地帯のプロデューサーでした。それで金子さんのアシスタントをやり始めたんですが、その時に制作中だったのが、玉置浩二の2ndソロアルバム『あこがれ』です。このアルバムの作詞はすべて須藤晃さんによるものでした。

山口 浜田省吾や尾崎豊のプロデューサーですよね。

大平 そうです。『あこがれ』のレコーディングは1年間くらいやっていました。これが今では考えられませんが、ずっと歌入れをしている。 歌詞とかアレンジを変えるのではなく、同じオケに何度も何度も歌を録り直している。当然制作費はすごくかかりましたけど、いろいろな意味で大変な作品です。ボーカルと言葉につかまれてしまって、“ながら”で聴くことができない。ポップスではないです。贅沢な実験ではありましたが、あの現場にかかわれたのはすごく勉強になりました。

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ディレクター/プロデューサーと作家の間

山口 先ほどの須藤さんも、大平さん自身もディレクター/プロデューサーでありながら、自身で詞曲を書かれますよね?

大平 数は少ないですが人に提供したり、自身のレーベルberry recordsでCECILというユニットを作って作品をリリースしていました。

山口 CECILは軽やかで良かったですよね。大好きでした。

大平 ある音楽出版社のオーディションに詩だけをたくさん送ってきた人がいて、当時その会社にいた友人が僕に見せてくれた。「これを音楽作品にしたい」と思い、本人に会って「この詩に僕が曲を付けるところからやってみよう」と始めました。 ただ、僕もその詩人も歌がヘタだったので、ボーカリストをまたオーディションから探したりして、実質CECILのプロデューサーであるその友人がFM802出身のイラストレーターのカンバラクニエを誘って、音もジャケットもすべて自前で作れるユニットCECILというカタチを作ったんです。僕の立場は作編曲とレーベルオーナーですね。

山口 映画『下妻物語』の挿入歌「super”shomin”car」は印象的でした。

大平 マイナーなりに少しは知られた曲かもしれません。その後その友人はデザイン集団グルーヴィジョンズのキャラクター“Chappie”をCDデビューさせたり、90年代末にして今の初音ミクの原型みたいなことをやっていました。僕も「水中メガネ」(作詞:松本隆/作曲:草野マサムネ)という曲の編曲などにかかわらせてもらいました。

山口 ディレクターという立場と、そういう作家的な活動の振り分けというか、スタンスの違いはどのようにしています?

大平 自分にとっては違いはありません。いつでも両方できますが、最近はディレクターに徹しています。

山口 あとお聞きしておきたかったのが、大平さんがなぜコンペを嫌いなのかということ。僕もコンペは好きではないですけど、ディレクターとして大平さんはどうお考えなのでしょう?

大平 例えば僕が制作を担当した作品で、Akeboshi の「wind」という曲がありました。これはTVアニメ『NARUTO -ナルト-』の初代エンディングテーマに採用された曲ですけれど、英語詞で5拍子の曲なんです。常識的にはそんな曲を、アニメの主題歌のコンペにエントリーする作家はいないと思う。

山口 「wind」は、サビが無くて驚きました(笑)。

大平 でも、このまったく無名なAkeboshiの1stインディーズ盤が10万枚以上のセールスを記録した。これが意味しているのは、いかにコンペという手法が合理的に見えて、実際はいろいろな可能性を減らしているかということです。いわゆる楽曲コンペでは「wind」のような曲を見つけることはできない、そもそも応募もされないでしょう。やっぱりみんな、コンペに参加するからには採用されることを狙っているわけだから、その確度を上げる努力をするわけです。だから当然コンペシートに沿った、似たような曲が集まってしまう。そんなワンコーラスのデモ100曲の中から1曲を選ぶことに本当に意味があるのかっていうのと、本当は作家に対して失礼じゃないかと思うのです。その中には渾身の力で曲を書いた人もいるわけですから……。僕は、曲だけでは決められないんです。フルサイズの詞があって歌える構成ができていて、初めて「曲ができた」と言えると思っている。だからワンコーラスの仮歌が入っているデモがずらっと並んでいても選ぶ基準が無い。仮歌詞やメロディだけでは分からないのです。

山口 「wind」がエンディングテーマに採用されたのは、逆にすごいですよね。

大平 当時既にインディーズで発売していた曲でした。それがいろいろな偶然が重なって、番組制作サイドの耳に届きEDに採用となった。そしてそれがTVで流れたら、お茶の間で家族団らんの時間には耳慣れないサウンドだから逆に人の耳にひっかかって。「誰が歌っているのか分からない」「外人かと思っていた」みたいな噂がどんどん広がった。当時Akeboshi本人は英国リバプール在住の留学生でしたから、問合せが連日くるのにアーティストの情報が無さ過ぎてCD店が困っていたんです。面白かった。

(次回は後編をお送りする予定です)

POSTSCROPT by山口哲一

インタビューの中でも出てきますが、高校の一期先輩です。入学してすぐ、先輩達がつくった自主制作映画を観て、映画はどうでもよかったけれど、音楽だけ素晴らしくて、なんだろう? と思ったら、オリジナル曲でした。大平さんがTHE REDSでデビュー後に「レイン」という曲名でリリースされている曲なのですが、アレンジもほとんど変わらず、バージョンとしてはあの時の方がよかったと今でも思っています。野球部に見学に行ったら、立浪(元中日ドラゴンズ)が打撃練習していた、みたいな衝撃を16歳の時に受けました(みなさんが知っている天才的なアスリートをイメージしてください。サッカー部を見学したら香川が居たとか)。僕が初めから音楽家を目指さなかったのは、この16歳の原体験が強かったからだと思います。
それ以来のお付き合いで、大平さんのお母さんにお説教をされるくらい自宅にも頻繁にお邪魔していました。そこで、たくさんの音楽も聴かせてもらいました。一緒にバンドもやって。学ぶことも多かったです。
デビューのきっかけとなったオーディションにデモテープを送ったのは僕だったりするし、メーカーディレクターを辞めた大平さんにインディーズレーベルをやるように唆してberry recordが始まったり、縁は深いのですが、インタビューで身内の思い出話をしても仕方ないので、読者にとって何らかの刺激になる話を聞き出したつもり です。
Kittyというレコード会社と多賀英典さんというプロデューサーは、日本の軽音楽に教科書ができたら、必ず一章は割かれるような強い存在感があるムーブメントでした。井上陽水、小椋佳、安全地帯、バービーボーイズ、久保田利伸等々、数多くのアーティストを世に出したということだけでなく、編曲家に印税を発生させる仕組みを最初に導入するなど、クリエイティブを大切にする。当時のイノベイティブ企業でした。そんなKittyをホームグランウンドに、アーティストからディレクター、そしてプロデューサーという道を歩んだ大平太一さんの指摘は、これからの音楽家にとって、有益なヒントがたくさん隠されているはずです。

大平太一(おおひら・たいち)

1963年東京生まれ。慶応大学工学部中退。1988年にバンドTHE REDSでデビュー。1991年に解散後は、キティレコードのディレクターとして、玉置浩二、高橋洋子、ハイロウズなどを担当。その後インディーズレーベルberry recordsを立ち上げ、自身プロデュースのCECILなどをリリースした。AKEBOSHI、Hermann H.&The Pacemakers、キャプテンシトライダム、SCANDALなどのサウンドプロデューサー、ディレクターを歴任。現在、株式会社キティパブリッシング代表取締役。音楽、原作、映像などの権利管理業務、音楽制作、及び本社所在地でもあるキティ伊豆スタジオの運営をおこなっている。

制作ディレクターとして:安全地帯、玉置浩二、ブルーボーイ、高橋洋子、SWITCH、ハイロウズ、ファンタゼロコースター、CECIL、Hermann H.&The Pacemakers、AKEBOSHI、SCANDAL、他。

山口哲一(やまぐち・のりかず)

1964年東京生まれ。(株)バグ・コーポレーション代表取締役。『デジタルコンテンツ白書』 (経産省監修)編集委員。j-Pad Girlsプロデューサー。SION、村上“ポンタ”秀一など の実力派アーティストをマネージメント。東京エスムジカ、ピストルバルブ、Sweet Vacationなどの個性的なアーティストをプロデューサーとして企画し、デビューさせる。プロデュースのテーマに、ソーシャルメディア活用、グローバ ルな視点、異業種コラボレーションの3つを掲げている。2011年頃から著作活動も始める。2011年4月に『ソーシャルネットワーク革命がみるみるわかる本』(ふくりゅうと共著/ダイヤモンド社)刊行。2012年9月に『ソーシャル時代に音楽を“売る”7つの戦略』(共著/小社)刊行。

『プロ直伝! 職業作曲家への道』の詳細はこちら(リットーミュージック)

『ソーシャル時代に音楽を“売る”7つの戦略』の詳細はこちら(リットーミュージック)

『エンジニアが教えるボーカル・エフェクト・テクニック99』の詳細はこちら(リットーミュージック)

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